現在進行中の事件などに関しては、本家およびはてなブックマークをご参照ください。

2009年05月01日

【写真】8点目、「紛争の終わり」@1994年停戦時

ベルファスト・テレグラフの写真特集、"A Conflict in Pictures" について、本館での最初の紹介記事から。
http://www.belfasttelegraph.co.uk/photo-galleries/article13909724.ece

なお、以下に貼り付けるURLは既に変更になっています(写真が差し替わっています)。このため、参照すべき写真をサムネイルのサイズにし、どういう写真なのかがわかる程度にした状態で添付しますので、それを参考に上記URLから探してください。




08Martin_Wright_CEASE__25356s-200.jpg

「紛争の終わり」のプロパガンダ写真として使われた有名なもの。
http://www.belfasttelegraph.co.uk/photo-galleries/article13909724.ece?ino=8
http://www.belfasttelegraph.co.uk/photo-galleries/article13909724.ece?ino=47

【キャプションのコピペ】
August 1994 A young boy and soldier on the Springfield Road in west Belfast Picture by Pacemaker

これ1994年だったのか。もう少し後のだと思ってた……August 1994は何日なのかが重要なのだけど、それは不明。8月31日にPIRAの停戦が宣言されています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Chronology_of_Provisional_IRA_Actions#1990s

Springfield Road in west Belfastといえばナショナリスト地域。

Pacemakerはベルファストの報道写真エージェンシー。
http://www.pacemakerpressintl.com/
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【写真】7点目、マイケル・ストーンのストーモント乱入事件@2006年11月

ベルファスト・テレグラフの写真特集、"A Conflict in Pictures" について、本館での最初の紹介記事から。
http://www.belfasttelegraph.co.uk/photo-galleries/article13909724.ece

なお、以下に貼り付けるURLは既に変更になっています(写真が差し替わっています)。このため、参照すべき写真をサムネイルのサイズにし、どういう写真なのかがわかる程度にした状態で添付しますので、それを参考に上記URLから探してください。




07PETER_MORRISON_MICH__25357s-200.jpg

http://www.belfasttelegraph.co.uk/photo-galleries/article13909724.ece?ino=7
http://www.belfasttelegraph.co.uk/photo-galleries/article13909724.ece?ino=46

Bloody Sundayの写真の次にこれを持ってくる意図がわからない――2006年11月のマイケル・ストーンの「テロ未遂」あるいは「アートパフォーマンス」
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【写真】6点目、1972年1月30日、デリー

ベルファスト・テレグラフの写真特集、"A Conflict in Pictures" について、本館での最初の紹介記事から。
http://www.belfasttelegraph.co.uk/photo-galleries/article13909724.ece

なお、以下に貼り付けるURLは既に変更になっています(写真が差し替わっています)。このため、参照すべき写真をサムネイルのサイズにし、どういう写真なのかがわかる程度にした状態で添付しますので、それを参考に上記URLから探してください。




06STANLEY__MATCHETT_B__25358s-200.jpg

6点目。1972年1月30日、デリー。
http://www.belfasttelegraph.co.uk/photo-galleries/article13909724.ece?ino=6
http://www.belfasttelegraph.co.uk/photo-galleries/article13909724.ece?ino=45
【キャプションの概略】
英軍兵士が並ぶ中、デイリー神父が血に染まったハンカチをかざし、何人かの人々が致命傷を負ったジャッキー・ダディ(17歳)を搬送。1972年1月30日、ブラッディ・サンデーとして知られる。写真撮影者:Stanley Matchett

3点目の「シャンキル・ロード爆弾」のキャプションの熱さと比べてどうでしょう。ジャッキー・ダディがどうして、誰によって致命傷を負わされたのかも書いていないし、その日に何人が殺され、何人が負傷させられたのかも書いていない。ジャッキー・ダディはその日最初に殺された人だということも書いていない。

この写真は、Bloody Sunday Trustの写真館にあるものの一瞬前ですね。これの少し前に撮影されたのが、デリーの壁画の元になっているこの写真です。何度見ても、「撃ち殺されたジャッキー・ダディと彼を助けようとする人々」のこの写真には、何とも言いがたい悔しさを覚えます。
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【写真】5点目、爆発物処理@2001年

ベルファスト・テレグラフの写真特集、"A Conflict in Pictures" について、本館での最初の紹介記事から。
http://www.belfasttelegraph.co.uk/photo-galleries/article13909724.ece

なお、以下に貼り付けるURLは既に変更になっています(写真が差し替わっています)。このため、参照すべき写真をサムネイルのサイズにし、どういう写真なのかがわかる程度にした状態で添付しますので、それを参考に上記URLから探してください。




05THOMAS_MC_MULLAN_ic__25360s-200.jpg

5点目。軍のロボットによる爆発物処理の瞬間。
http://www.belfasttelegraph.co.uk/photo-galleries/article13909724.ece?ino=5
http://www.belfasttelegraph.co.uk/photo-galleries/article13909724.ece?ino=44

キャプションによると2001年だから、PIRAではないのですが(PIRAは2001年には既に停戦していたので)、どの組織のものか、また場所などはわかりません。爆発物が仕掛けられていた車は、ICELANDというスーパーマーケット・チェーンの配送車。写真撮影者はThomas McMullan。

タグ:写真 資料 爆弾
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【写真】4点目、リンチ@たぶん1970年代

ベルファスト・テレグラフの写真特集、"A Conflict in Pictures" について、本館での最初の紹介記事から。
http://www.belfasttelegraph.co.uk/photo-galleries/article13909724.ece

なお、以下に貼り付けるURLは既に変更になっています(写真が差し替わっています)。このため、参照すべき写真をサムネイルのサイズにし、どういう写真なのかがわかる程度にした状態で添付しますので、それを参考に上記URLから探してください。




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4点目。「リンチ」。
http://www.belfasttelegraph.co.uk/photo-galleries/article13909724.ece?ino=4
http://www.belfasttelegraph.co.uk/photo-galleries/article13909724.ece?ino=43
【キャプションのコピペ】
Tarred, feathered and tied to a lamppost. Picture by Trevor Dickson


「タールと鳥の羽」については下記参照。
http://en.wikipedia.org/wiki/Tarring_and_feathering

このウィキペディア記事に:
Similar tactics were also used by the Provisional Irish Republican Army (IRA) during the early years of the The Troubles. Many of the victims were women who had been in sexual relationships with policemen or British soldiers.
紛争初期において、同様の方法がPIRAによって用いられた。被害にあった人の多くが、警官や英兵と性的関係にあった女性だった。

とあるのですが、この写真は男性のようです。罪状を書いた紙はタールでべたべたで読めませんが、空き巣か何かをしたようです。当時はPIRAが地域の「警察」の役割を(勝手に)果たしていたので(北アイルランド警察はユニオニスト側であり、ナショナリストのコミュニティに入れられない存在だった)、こういう「刑罰」がありました。

なお、「タールと鳥の羽」は昨年8月にも発生していますが、これはUDAがやったらしいです。(タールと鳥の羽をかけられた人が「私は麻薬密売をしているクズ野郎です」と書かれた紙を持たされている。)
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【写真】3点目、シャンキル・ボム@1971年

ベルファスト・テレグラフの写真特集、"A Conflict in Pictures" について、本館での最初の紹介記事から。
http://www.belfasttelegraph.co.uk/photo-galleries/article13909724.ece

なお、以下に貼り付けるURLは既に変更になっています(写真が差し替わっています)。このため、参照すべき写真をサムネイルのサイズにし、どういう写真なのかがわかる程度にした状態で添付しますので、それを参考に上記URLから探してください。




03Balmoral_71_Alan_Lew_25364s-200.gif

3点目、これはIRAの爆弾関連。
http://www.belfasttelegraph.co.uk/photo-galleries/article13909724.ece?ino=3
http://www.belfasttelegraph.co.uk/photo-galleries/article13909724.ece?ino=42
【キャプションの概略】
1971年12月。ベルファスト、シャンキル・ロードのバルモラル家具社の瓦礫から救出された幼児(死亡)を運ぶ救急隊員。クリスマスを目前に控えた土曜日の午後に爆発したProvisional IRAによる「警告なし」の爆弾で、2人の幼児と2人の大人が死亡し、数十人が負傷した。撮影者:Alan Lewis

キャプションが長いです。シャンキル・ロードのこの爆弾テロ事件は、ナショナリストのコミュニティにとってのブラッディ・サンデーと同じような効果をユニオニストのコミュニティにもたらした事件だと説明されることが多いのですが、そういうことではなく、「事件がいかに卑劣なものであったか」についてたっぷりとキャプションで語られています。写真には、救急隊員、消防隊員、警官、軍兵士、一般の人々が撮影されています。見れば見るほど、「深い」記録写真だと思います。


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【写真】2点目、ドラムクリー@たぶん1995年

ベルファスト・テレグラフの写真特集、"A Conflict in Pictures" を見て行きます。
http://www.belfasttelegraph.co.uk/photo-galleries/article13909724.ece

とりあえずは、本館での最初の紹介記事から。

なお、以下に貼り付けるURLは既に変更になっています(写真が差し替わっています)。このため、参照すべき写真をサムネイルのサイズにし、どういう写真なのかがわかる程度にした状態で添付しますので、それを参考に上記URLから探してください。




02Drumcree_Tony_Hendro_25361s-200.jpg

これもロイヤリスト関連。
http://www.belfasttelegraph.co.uk/photo-galleries/article13909724.ece?ino=41
キャプションには「ドラムクリー、撮影者:Tony Hendron」とあるだけなのですが、この写真もこの「事件」もあまりに有名。写真は1995年だったと思います。
http://en.wikipedia.org/wiki/Drumcree_conflict

※これは、IRA関連の写真ではありません。
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【写真】1点目、ロイヤリスト暴動@2005年

このあとしばらく、ベルファスト・テレグラフの写真特集、"A Conflict in Pictures" を見て行きます。
http://www.belfasttelegraph.co.uk/photo-galleries/article13909724.ece

とりあえずは、本館での最初の紹介記事から。

なお、以下に貼り付けるURLは既に変更になっています(写真が差し替わっています)。このため、参照すべき写真をサムネイルのサイズにし、どういう写真なのかがわかる程度にした状態で添付しますので、それを参考に上記URLから探してください。




01Crispin_Rodwell_Rio__25339s-200.jpg

1枚目。これはロイヤリスト関連。
http://www.belfasttelegraph.co.uk/photo-galleries/article13909724.ece
http://www.belfasttelegraph.co.uk/photo-galleries/article13909724.ece?ino=40
【キャプションの概略】
2005年9月。オレンジオーダーのパレードのルート変更のために起きた西ベルファストのロイヤリスト地区での暴動の際、英陸軍のランドローバーが炎上。軍と警察に対し銃撃などが加えられ、軍用車両3両が破壊された。撮影者:Crispin Rodwell


※これは、IRA関連の写真ではありません。
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写真で見る「北アイルランド紛争」〜はじめに

「北アイルランド紛争」というと「IRAの爆弾」ばかりが語られますがそれだけではありません。ベルファスト・テレグラフが2008年半ばから、"A Conflict in Pictures" という写真特集をやっています ("The Troubles in pictures" ではない、というのは興味深いですね)。
http://www.belfasttelegraph.co.uk/photo-galleries/article13909724.ece

当初は全部で34点、1970年ごろから2005年ごろまでをカバーしていたこの写真集はその後拡充(と画像の差し替え)を経て、2009年4月現在も更新継続中です。現在アップされている写真の点数は300件を超えています。

この特集が始まったとき、本館のほうで紹介の記事を書き、またその3ヵ月後に一度写真がどかっと追加されたときにも本館のほうで紹介の記事を書いたのですが、それらが完全にoutdatedになっているので、その修正とアップデートも兼ねて、こちらで少しずつ、見ていきたいと思います。

写真は順不同で取り上げることになると思いますが、よろしくお付き合いください。

【続きを読む】
タグ:資料 写真
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2009年03月17日

【事件・人 質問8】 エニスキレン爆弾事件とは。

【事件・人 回答8】

2007年に投稿した本家のエントリを丸ごとコピペします。
http://nofrills.seesaa.net/article/65542069.html



1987年11月8日、日曜日。北アイルランドの西部、ファーマナ州最大の都市、エニスキレン。その日は英国の「戦没者追悼の日 (Remembrance Sunday: 第一次・第二次大戦の戦死者を追悼する)」で、エニスキレンでもほかの都市と同じように、街の戦没者慰霊碑のある広場で、追悼式典が執り行われようとしていた。エニスキレンは英陸軍の連隊が拠点としていた街で、その日、広場に集まっていたのは儀式のパレードを見るために出かけてきた一般市民で、その多くはプロテスタントの高齢者(戦中世代の人たち)だった。

午前10時45分、慰霊碑のすぐそばの建物が爆発した。建物の大きな壁が吹き飛び、一帯は瓦礫に覆われた。

爆弾を仕掛けたのはIRA (the Provisional IRA) だった。予告電話はなかった。

瓦礫の下に生き埋めになった人たちを、慰霊碑までパレードしてきていた軍人たちが救出するところが、追悼式典を取材にきた報道陣のカメラによって克明にとらえられている。
http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/november/8/newsid_2515000/2515113.stm
※Play Videoをクリックで映像が見られます。

BBCの当時の報道によると、ファーマナ州ではIRAの活動(「テロ」)が活発で、この日のパレードの経路は事前に丹念に調べられていた。しかし爆発した建物は調査されておらず、いつの間にか爆発物が仕掛けられていたのが気付かれなかったらしい。タイマーで爆発したこの爆発物は、その場で11人を殺し、60人以上を負傷させた。

【続きを読む】
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2009年03月16日

【事件・人 質問7】 ミルタウン墓地襲撃事件について。(マイケル・ストーン)

【事件・人 回答7】

今からちょうど21年前の1988年3月16日、ベルファストのカトリックの地域にある「ミルタウン墓地」で、3月6日にジブラルタルで射殺された3人のIRA「義勇兵」の葬儀が行なわれていました。「IRAの軍葬」という形でとりおこなわれた葬儀には、ジェリー・アダムズ、マーティン・マクギネスといったリパブリカンの指導者をはじめ、多くの人々が参列しており、「ジブラルタルで射殺されたIRAメンバーの葬儀」ということで、マスコミの取材のカメラも多く入っていました。

この葬儀を、ひとりのロイヤリストの「兵士」が襲撃しました。(この人物の自伝には「フリーランスだった」とありますが、元々UDA/UFFに所属していました。「兵士」というのは彼の自認です。)

少し冗長になりますが、過去に書いたものから。(2年以上前に書いたものなので、文中のリンクが切れていたらすみません。)

2006年11月02日 Michael Stone(マイケル・ストーン)
http://nofrills.seesaa.net/article/26613641.html
1988年3月16日、ジブラルタルで英軍特殊部隊に射殺されたIRAメンバー3人の葬儀が、ベルファストのミルタウン墓地で行なわれていた。多くの人たちが集まった葬儀にはジェリー・アダムズ、マーティン・マッギネスらシン・フェインの幹部も参列していた。棺が墓地に運ばれ、地面に置かれたそのとき、手榴弾が投げつけられ、墓地内に潜んでいたストーンのピストルの銃口からジェリー・アダムズらを狙って銃弾が放たれた。アダムズらは難を逃れたが、IRAメンバー1人と、カトリックの一般人(IRAメンバーではない)2人が、ストーンによって殺された。一連の出来事は葬儀を取材していたテレビカメラにとらえられていた。それで一躍名前が知れ渡った。ストーンはその場で葬儀参列者に取り押さえられ、ぼこぼこにされて車に押し込められたところを、警察に保護、というか逮捕された。(→ストーンの襲撃の瞬間の映像@音声付と、襲撃後の様子も含めた映像@音声は音楽)(※これら2つとも、プロパガンダ色の強いものです。前者はロイヤリストのプロパガンダ、後者はリパブリカンのプロパガンダ。)

そして1989年、裁判で有罪となり終身刑(懲役700年くらい)に服することになったが、「服役中の政治犯の釈放」を規定した1998年のグッドフライデー合意(GFA:ベルファスト合意)により、2000年に釈放された。
http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/
stories/july/24/newsid_2515000/2515041.stm


2009年3月の英軍基地襲撃と警官射殺という2つの事件のあとにタイムズがオンラインで掲載した北アイルランド紛争写真集(全11点)の4点目が、マイケル・ストーンが襲撃した直後のマーティン・マクギネスをとらえています(4人いる人物の一番左)。ひとりの負傷者と、彼を介助している人たちとマクギネス。背景には大勢の人の後姿。

ナショナリスト/リパブリカンの間では「ミルタウンの虐殺 Milltown Massacre」と呼ばれるこの襲撃で、上述の通り、3人が殺され、60人以上が負傷しました。
http://en.wikipedia.org/wiki/Milltown_Massacre

【続きを読む】
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2009年03月15日

【事件・人 質問6】 ローズマリー・ネルソン爆殺事件について。

【事件・人 回答6】

今からちょうど10年前の1999年3月15日13時ごろ、アーマー州ラーガン (Lurgan) で、車に仕掛けられていた爆弾が爆発、車に乗っていた人が殺されました。

(これが、1998年のグッドフライデー合意の後であること、1998年8月のオマー爆弾事件と、その後のReal IRAの停戦の後であることにも留意してください。)

まずはラーガンの場所(すぐ西に、つい先日警官が射殺されたクレイガヴォンがあります):

View Larger Map

車に乗っていたのはローズマリー・ネルソン (Rosemary Nelson) という40歳の女性でした。彼女の自家用車に爆発物が仕掛けられていて、自宅を出て出かける途中で爆発したのです。爆発で両脚を吹き飛ばされていたネルソンは、搬送先の病院で亡くなりました。

ネルソンは、1989年に自宅で射殺されたパット・フィヌケンと同様に、ナショナリスト/リパブリカンが被告になった裁判で弁護士として活動していました。彼女のクライアントには、広く知られているリパブリカン(Provisional IRAのメンバー)が複数いました。
http://en.wikipedia.org/wiki/Rosemary_Nelson

ネルソンを殺した爆弾についてはRed Hand Defenders (RHD) が犯行声明を出しました。当時は「謎のロイヤリスト組織」だったRHDは、後から判明したところによると、UDAとLVFの強硬派(和平に反対する立場のパラミリタリー)が使っていた組織名で、特にLVFは、ほぼ全員がRHDで活動していたようです。非常に大雑把に説明すれば、この組織は、リパブリカン側のReal IRAやContinuity IRAと同じように、政治プロセスが(ゆっくりとであれ)動き出してからも「戦争」を継続していたということになります。(でも、リパブリカン強硬派のReal IRAの名前を知っていた人も、ロイヤリスト強硬派のRHDについては聞いたこともなかったのではないかと思います。)

RHDについては詳細は項を改めたいと思いますが、少しだけメモしておくと、2002年にはカトリック学校の職員とカトリック教徒である郵便局員を「正当なターゲット」であると宣言しています。カトリックの家に爆弾(パイプボムなど)を投げ込んだりしています。また、ネルソン爆殺の1999年というとロイヤリストの内紛がひどくなりつつあった時期ですが、当時の報道を見ると、RHDはUVFと激しく敵対していたようです。

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2009年03月14日

【事件・人 質問5】 ジェリー・アダムズ暗殺未遂事件 (1984年3月14日) について。

【事件・人 回答5】

今からちょうど25年前の1984年3月14日、ベルファスト中心部で、一台の車が襲撃されました。

20発もの銃弾を浴びせられたその車に乗っていたのは、前年11月にシン・フェインの党首に選ばれていたジェリー・アダムズでした。


※上記キャプチャには、映画『父の祈りを』の「ギルフォード・フォー」と非常によく似た冤罪の事例である「バーミンガム・シックス」(1974年のIRAの爆弾事件の実行犯として有罪になった無実の6人)が晴れて自由の身になった、という1991年3月14日の記事も入っていますが、このエントリではアダムズの暗殺未遂のことだけを扱います。

BBC On This Day: 14 March
1984: Sinn Fein leader shot in street attack
Gunmen have shot and wo
http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/
stories/march/14/newsid_2543000/2543503.stm


アダムズは首、肩、腕に被弾しましたが、命に別状はなく、即座に搬送された病院で弾丸の摘出手術を受けて5日後には退院しています。

同じ車に乗っていた3人も負傷しましたが、誰も死亡はしませんでした。

車を襲撃したのは、ロイヤリスト組織UDAの攻撃専門部隊であるUFFでした。(銃撃実行犯は逮捕・起訴され、1985年に有罪判決を受けています。)

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2009年03月10日

【リパブリカンFAQ 質問12】 「真のIRA (Real IRA)」はIRAですか。

【リパブリカンFAQ 回答12】

主義主張、思想信条といった点では、「真のIRA」は "IRA" かもしれません。しかし組織としては、「真のIRA」は「IRA」ではありません。

北アイルランド紛争について「IRA」と言う場合、それが「思想信条」のことなのか「組織」のことなのかが微妙なことがよくあるのですが、アカデミックな分析や実際に暮らしている人たちの言語ではなく報道・ニュースの言語でいう「IRA」はほぼ例外なく組織のことですし、前提としては、「真のIRA」は「IRA」とは別の組織である、と認識してください。

いわゆる「IRA」はProvisional IRAのことです。「真のIRA」、つまりReal IRAは、Provisional IRAの分派です。この「分派」というのをもう少し詳しく言うと、Provisional IRAの方針に納得できないので、Provisional IRAを抜けて別な集団・組織を作った、ということです。具体的には、1997年から98年にかけて「和平プロセス」に賛成した人々はProvisional IRAに残り(数の上でも多数だった彼らが「リパブリカン主流」と言える存在です)、それに反対したメンバーがProvisional IRAを抜けて結成したのがReal IRAです。

「IRA」と「真のIRA」の違いとして最も重視されるべきことは、前者は現在は活動しておらず、後者は現在も活動している、ということです。(ここでは「現在」は2008年から2009年のことを言います。)

【続きを読む】
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2009年03月09日

2009年3月7日の軍基地での事件については、ここではなく本家をご覧ください。

2009年3月7日に発生したアントリムの軍基地での事件(英兵2人死亡、2人負傷、ピザ屋のデリバリー・スタッフ2人負傷)については、本家をご覧ください。

http://nofrills.seesaa.net/archives/20090308.html
http://nofrills.seesaa.net/archives/20090309.html

犯行声明は、Real IRAから出たようです。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/7930995.stm
タグ:Real IRA
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2009年03月06日

【事件・人 質問4】 "Death on the Rock" とは。

【事件・人 回答4】

"Death on the Rock" とは、1988年4月28日に英国の民放、ITVで放映された番組のタイトルです。この "the Rock" とは、イベリア半島のジブラルタル(英領)のシンボル的な、見事な岩山のことです。

番組は、1988年3月6日にジブラルタルで起きたある事件についての調査報道です。事件発生から2ヶ月もしないうちに放映されたこの番組は、たいへんな物議をかもしました。

番組が引き起こした議論については、下記などをご参照ください。
http://en.wikipedia.org/wiki/Death_on_the_Rock
http://www.museum.tv/archives/etv/D/htmlD/deathonthe/deathonthe.htm

3月6日の事件について概略を、堀越智、『北アイルランド紛争の歴史』(論創社、1996年)から。

 翌八八年三月六日、ジブラルタルでIRA三人が射殺された。IRA容疑者がその場で射殺されることは以前にもあったことであり、IRA容疑者の冤罪もまたしばしば取り沙汰されて(後述のようにやがて冤罪が確定するケースがいくつもある)いたので、このニュースが流れると裁判抜きの処刑ではないかとカトリック住民の反英感情を高ぶらせた。遺体が北アイルランドに帰り、一六日にベルファストで行なわれた葬儀には一万人以上の市民が参列した。……


この事件、当初は「ジブラルタルでIRAとSASが銃撃戦になり、その結果、IRAメンバー3人が死亡した」と報じられたのですが、実際には「銃撃戦」は事実無根で、射殺されたIRAメンバーは3人とも武装していなかったということがすぐに判明しています。また、「IRAは今にも爆弾(カーボム)をリモコンで作動させようとしていた」という説明もありましたが、それも事実ではありませんでした。

しかしながら、殺されたIRAメンバー3人が、ジブラルタルでの作戦の任務を負っていたことは事実です。標的は現地での英軍の軍楽隊で、衛兵交替を狙っていたとのことです。

射殺されたのは、マレード・ファレル(31歳)、ダニー・マッカン(30歳)、ショーン・サヴェージ(23歳)。英軍の作戦名は、Operation Flaviusでした。
http://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Flavius

ファレルは1976年に爆弾事件で有罪となりアーマーの女性刑務所に投獄されましたが、パラミリタリーの囚人に対する「スペシャル・カテゴリー」が打ち切られた後の最初の女性囚で、アーマー女性刑務所でのブランケット・プロテストの最初のひとりでした。(アーマーでもロングケッシュと同様の抗議行動が行なわれていました。)1986年に釈放され、大学に通うもすぐにIRAの活動に専念、大学はドロップアウトしています。

※以下、日を改めて書き足します。たぶん。


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【音楽】ベルファストのバンド、And So I Watch You From Afarのアルバムが出ました。

aboutのところに書いたように、当方ではベルファストのバンド、And So I Watch You From Afar (ASIWYFA) の "The Voiceless"(「声なき者たち」) という曲を、勝手に「主題歌」にしています

そのAnd So I Watch You From Afarのアルバムが、たぶん日本先行で、3月4日にリリースされました。アルバムタイトルはバンド名と同じ(セルフ・タイトル)、"And So I Watch You From Afar" (「そして私は、彼方からあなたを見る」)です。価格は2,100円で、日本盤のレーベルはXTAL Recordsさん。(UK&欧州盤はデリーのSmalltown AmericaというDIYレーベルからのリリース。)予約しておいたのはもう届いてます。既に何度か聞きました、爆音で。

UK&欧州盤を待たずに日本盤を買いたい方は下記からどうぞ。

And So I Watch You From AfarAnd So I Watch You From Afar
アンド・ソー・アイ・ウォッチ・ユー・フロム・アファー

曲名リスト
1. Set Guitars To Kill
2. A Little Bit Of Solidarity Goes a Long Way
3. Clench Fists, Grit Teeth...GO!
4. I Capture Castles
5. Start A Band
6. Tip Of The Hat, Punch In The Face
7. If It Ain't Broke, Break It
8. TheseRIOTSareJUSTtheBEGINNING
9. Don't Waste Time Doing Things You Hate
10. The Voiceless
11. Eat The City, Eat It Whole

Amazonで詳しく見る
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詳細は本家でどうぞ。
http://nofrills.seesaa.net/article/115216763.html

アルバムに収録されている曲のビデオ。夜のベルファストで撮影されています。

A Little Solidarity Goes A Long Way (Music Video)
http://ie.youtube.com/watch?v=7EOi91-Ge6c

※少し激しく画面がちかちかしますので、そういうので気分が悪くなる方はご注意ください。
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2009年03月04日

【質問29】 ロング・ケッシュってどういう感じだったんでしょうか。

【回答29】

「ロング・ケッシュ Long Kesh」は、「メイズ刑務所」の旧称にして通称です。英空軍の施設だった場所が、1970年代以降、パラミリタリー組織のメンバーを収容する施設として使われてきました。初期は軍施設時代のニッセンハット(かまぼこ型の建物)を利用していましたが、1970年代半ばにコンクリートの建物(形状から「Hブロック」と呼ばれる)が新たに作られ、そこでハンスト、大脱走、ビリー・ライトの射殺など数々の出来事が起こりました。刑務所としてはグッドフライデー合意後の2000年に閉鎖され、2006年に取り壊しが始まり、跡地の再開発計画が……その話は現状わけわかんないからやめときます。

「ロングケッシュ」の概略はウィキペディア英語版やBBCなどで。
http://en.wikipedia.org/wiki/Maze_(HM_Prison)
http://news.bbc.co.uk/hi/english/static/
in_depth/northern_ireland/2000/maze_prison/default.stm


写真はflickrにグループがあります。
http://www.flickr.com/groups/mazeprison/

取り壊し前の2005年9月に特別一般公開が行なわれ、内部が細かく撮影されています。ものすごく貴重な資料。
http://www.flickr.com/photos/stillburning/sets/1001973/
http://www.flickr.com/photos/a11sus/sets/998455/

以上が施設概略で、以下が本題です。といっても例によって本家からのコピペです。

1970年代前半、まだニッセンハットだったころにインターンメント(少しでも「疑わしい」と思われたカトリックの男性たちがほとんど見境なく当局に身柄拘束され、拘禁された上に拷問にもさらされた)でロング・ケッシュに入れられていたローナン・ベネットの文章です。

コピペ元:
2008年11月02日 "talking to a dead man" ――ロング・ケッシュを経験した人の映画Hungerのレビュー
http://nofrills.seesaa.net/article/108986493.html

【続きを読む】
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2009年03月03日

【リパブリカンFAQ 質問11】 1980年ハンストについて。

【リパブリカンFAQ 回答11】

1980年のハンストについては、参加者の名前で検索すれば、インタビューなどがけっこう出てくるのではないかと思います。参加者の名前は英語版ウィキペディアで確認できます。

「続きを読む」以下に、1980年ハンストで主導的な立場にいたブレンダン・ヒューズが亡くなったとき(2008年2月)の本家でのエントリを、訃報としての追悼の部分を削除して、コピペします。(長いけど。)それと、2008年12月にもうひとりの80年ハンガーストライカー、ショーン・マッケンナが亡くなったときのエントリも。

サンズの1981年ハンストは、ヒューズの1980年ハンストの延長線上にあるものです。81年のハンストが「10名死亡」というあまりに衝撃的な展開になり、後への影響も大きかったために、80年のハンストは見過ごされがちですが。

では、ここからコピペ。

【続きを読む】
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【リパブリカンFAQ 質問10】 1981年ハンスト参加者のインタビューなどはないのですか。

【リパブリカンFAQ 回答10】

ネットで閲覧できて情報量が多い1981年のハンスト参加者のインタビューとしては、ハンストから25年となる2006年3月にガーディアンが取材した記事があります。(他にもあるかもしれませんが、とりあえず。他に何かこれというのがあればこちらのコメント欄からお知らせいただけると嬉しいです。)

The legacy of the hunger strikes
Melanie McFadyean
The Guardian, Saturday 4 March 2006
http://www.guardian.co.uk/politics/2006/
mar/04/northernireland.northernireland


これは週末の別冊に掲載されたもので、誌面で確か4ページの超ロング・インタビュー記事です。読むのにかなり時間がかかりますが(そして精神的にも疲れる)、1981年ハンストという出来事に関心がある方、1970年代の北アイルランド紛争の実態を知りたいという方はぜひ。

インタビューを受けている人々について、記事を書いている記者は次のように説明しています。

There were 13 other prisoners who survived that hunger strike (two, Pat McGeown and Matt Devlin, have since died). Seven agreed to be interviewed: Laurence McKeown, Paddy Quinn, Pat Sheehan, Jackie McMullan, Brendan McLaughlin, Gerard Hodgins and Brian (not his real name - his workmates know nothing of his past and his job takes him to loyalist areas). They pass unnoticed in the street; they have slipped into ordinary lives.

ハンガーストライキを生き残った囚人は13人(そのうちの2人、Pat McGeownとMatt Devlinは現在までに亡くなっている)。今回取材に応じてくれたのは以下の7人である。Laurence McKeown, Paddy Quinn, Pat Sheehan, Jackie McMullan, Brendan McLaughlin, Gerard Hodgins, そしてBrian(本名ではない。彼の職場の人々は彼の過去について何も知らないし、仕事の都合で彼はロイヤリストの地域に行かなければならないため仮名を用いる)。街を歩いていても誰も彼らに気付くことはない。彼らは平凡な生活の中に入ってしまっている。


【続きを読む】
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2009年03月02日

【映画の紹介】 Hunger ――1981年のハンストを描いた映画

映画『Hunger』(→公式サイト……非常にきれいです)、2月23日にUKでDVDが出ました。Region 2ですがPALなので、日本では普通のDVDプレイヤーでは見られません。パソコンなら見られます。聴覚支援目的の字幕がついているかどうかは、ちょっと確認できていませんが、字幕がないとかなり厳しいかもしれません(ダイアローグが中心になるのは、92分の中の17分と、あとごく短いシーンだけですが)。
B001L7XND2Hunger [DVD] [2008]
Liam Cunningham Larry Cowan
Pathe Video 2009-02-23

by G-Tools


この映画については本家のエントリ(下記URLで記事一覧)をご参照ください。特に、2008年10月に東京国際映画祭で上映されたのを見たあとのエントリ(ただしネタバレ)。
http://nofrills.seesaa.net/tag/hunger

この映画についてのリンク集:
http://www.imdb.com/title/tt0986233/
http://en.wikipedia.org/wiki/Hunger_(2008_film)
http://en.wikipedia.org/wiki/Steve_McQueen_(artist)
http://en.wikipedia.org/wiki/Michael_Fassbender

トレイラー@YouTube(配給会社がアップしたもの):
http://www.youtube.com/watch?v=KUeXTA44ZFo


【続きを読む】
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【リパブリカンFAQ 質問9】 1981年のハンストでの要求について。

【リパブリカンFAQ 回答9】

【リパブリカン質問7】に書いたように、声明文で彼らは、自分たちにとって正当な「政治犯としての待遇 (political status) を受ける権利を要求する」と述べています。また、これまでも4年以上にわたるブランケット・プロテストやダーティ・プロテスト(ノー・ウォッシュ・プロテスト)でそれを要求してきたがそれが受け入れられないので、国際世論を動かして英国政府にプレッシャーを加えたい、という内容のことも同じ声明文で述べられています。(これらについて詳細は【リパブリカン質問7】をご参照ください。

ではその「政治犯としての待遇 (political status)」とはどのようなものか、という点については、1976年にSpecial Category Status (→詳細は【リパブリカン質問7】を参照) が廃止された後の一連の流れから見なければなりません。別な言い方をすると、Special Category Statusの廃止後、ロングケッシュの囚人たちは一貫して同じことを要求してきた、ということです。

英語版ウィキペディアから:
http://en.wikipedia.org/wiki/1981_Irish_hunger_strike
#Blanket_and_dirty_protests


【続きを読む】
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【リパブリカンFAQ 質問8】 1981年のハンスト参加者について。

【リパブリカンFAQ 回答8】

1981年ハンスト参加者については、英語版ウィキペディアThe Irish Hunger Strike Commemorative Web Projectなどで調べることができます。

参加者は合計で23名、所属組織はProvisional IRAが19名、INLA (the Irish National Liberation Army) が4名。死者は10名(PIRA7名、INLA3名)です。

この前のハンスト、1980年10月のときは、ハンスト参加者7人全員が一斉にハンストを開始しましたが、1981年ハンストのリーダーだったボビー・サンズはこのやり方では当局に十分なプレッシャーをかけられないと考え、また、今回は死ぬまで絶食することになると見込んで、ひとりまたひとりと時期をずらしてハンストに入るという方法をとりました。

こうして、3月1日から9月21日まで、23人が続々とハンスト入りしました。

5月5日にサンズが絶命したあとにハンスト入りしたのが19人、うち6人が死亡、7人が家族の介入などの事由でハンスト中止、6人が終了宣言(10月3日)でハンストを終了しました。

以下、1981年ハンストの死者について、ハンスト入りした順番に。

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2009年03月01日

【リパブリカンFAQ 質問7】 1981年のハンガーストライキの背景は。

【リパブリカンFAQ 回答7】

1981年3月1日、北アイルランドのメイズ刑務所(旧称ロングケッシュ)で、リパブリカンの囚人によるハンガーストライキが開始されました。

アイリッシュ・リパブリカニズムとハンストという手段にはずっと前からの歴史があり、その歴史について触れることなく1981年のハンストだけを取り上げることは実はあまりよいことではないと思うのですが、とりあえずは1981年のハンストについて、ごく基本的なことを、なるべく一次資料を参照しながら簡単にまとめておきます。

まず、1981年のハンスト開始時の声明文を参照します。

「1981年3月1日、第二次ハンガーストライキの開始に際しての声明文」
1 MARCH 1981 STATEMENT AT START OF SECOND HUNGER STRIKE
http://larkspirit.com/hungerstrikes/81statement_start.html
http://web.archive.org/web/20090113061146/http://larkspirit.com/hungerstrikes/81statement_start.html
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2009年02月12日

【事件・人 質問3】 パット・フィヌケン殺害事件とは。

【事件・人 回答3】

0717135438パット・フィヌケン (Pat Finucane) は1949年生まれのベルファストの弁護士(ソリシター)で、20代の「若手」のころから何人もの「有名な」クライアントのために法廷で活動してきた人です。(彼のクライアントのなかには、1981年のハンガーストライキで餓死したボビー・サンズも含まれていました。)

今からちょうど20年前の1989年2月12日、自宅で家族で食卓を囲んでいたフィヌケンは、妻子の目の前で、乱入してきた覆面の男2人に射殺されました。

12 February, 1989
Belfast lawyer Finucane murdered
http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/february/12/newsid_2540000/2540849.stm

パット・フィヌケン射殺事件は、事件の翌日にUDAが犯行声明を出し、事件から14年も経過した2003年に「実行犯」が逮捕・起訴されて2004年には有罪判決(禁錮22年)を受けています(ただしグッドフライデー合意により、2006年5月に釈放)。

しかし「実行犯」以上に「問題」となるのは、あのような殺害が可能となった背景に「警察がUDAに情報を流していた」という事態があったことです。そのこと自体は証拠ありという法的結論が出ているのですが、それについての真相解明は進んでいません。むしろ逆で、「真相」はなるべく「解明」されたくないのではないかという……例えば、事件についての資料が集められていた部屋(警察署内)が放火されて資料が焼失していたりしています。そういった経緯については、Justin O'Brien, "Killing Finucane" (2005) が詳しいです(書影は、このエントリの一番上に貼ってあります)。

そして、2007年6月にはこの「警察と武装組織との関係」についての刑事訴追という手続は完全に断念されています。刑事訴追とは別に行なわれることになっているパブリック・インクワイアリーも全然進んでいません。(フィヌケン事件と同様に、「警察と武装組織との関係」で特別に真相究明が必要と結論されたビリー・ライト事件ローズマリー・ネルソン事件については、インクワイアリが進んでいます、一応は。フィヌケン事件では特にご遺族や元同僚が、インクワイアリが「非公開」で進められる可能性が高いと考えて、完全に公開するよう英国政府に求め、英国政府はそれを拒否しています。)

以下、パット・フィヌケンという人とその殺害についてもう少し詳しく。

本館のエントリから:
2007年06月26日 奥の闇――パット・フィヌケン事件での治安当局とテロ組織の結託、起訴断念
http://nofrills.seesaa.net/article/45993321.html

※以下、2007年6月時点の記述のままです。
1989年2月12日、ベルファストのあるカトリックの家族を覆面のガンマン2人が襲った。家族は自宅で日曜日の食事の最中、つまり一家団欒の最中だった。一番上の子は下の2人の子をかばって部屋の隅で床に伏せた。ガンマンは家族の目の前で、父親に14発の銃弾を浴びせて殺した。母親も足に負傷した。

殺されたのはパット・フィヌケン(39歳)。ベルファストの弁護士(ソリシター)で、IRAのメンバーの裁判で被告人の弁護などをしていた。ものすごいやり手だったようで、IRAメンバーの無罪判決を勝ち取るなど、リパブリカンと敵対する勢力、つまり英国の治安当局とロイヤリストにとっては目障りな存在だった。

事件のすぐあと、Ulster Freedom Fighters(UFF: UDAの別名)が犯行声明を出した。「パット・フィヌケンはIRAである」。IRAのメンバーなら、「残念だがこれは『戦争』なのだ」とか言ってUDAであれUVFであれ、ロイヤリスト組織が殺しても、殺した側は「正当なターゲット」だったと主張することができた(それが「北アイルランド紛争」だ)。しかし、パット・フィヌケンがIRAだというUDA/UFFの声明の内容は、事実ではなかった。


【続きを読む】
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2009年01月30日

【資料】「ブラッディ・サンデー事件」の当時の報道を読みたいのですが。

Bloody Sunday事件に限らず、英紙the Timesの過去の紙面アーカイヴが利用できます。1785年から1985年まで200年分の同紙の紙面(のスキャン画像とテキストデータ)が、ネットさえあれば誰でもアクセス可能になっています。
http://archive.timesonline.co.uk/tol/archive/

The Timesのアーカイヴの使い方などについては、2008年6月に「本館」で説明のエントリを立ててありますので、そちらをご参照ください。
http://nofrills.seesaa.net/article/101614612.html

The Timesのブラッディ・サンデー事件の第一報(1972年1月31日)のキャプチャ画像:


また、これとは別に、ウェブで当時の報道を探して書いたエントリが、本館にあります。

2008年02月12日 マーゴ・ハーキン、『デリー・ダイアリー』(NI映画祭)を見て、当時の報道を見る
http://nofrills.seesaa.net/article/83761873.html

以下に、このエントリをそのままコピー&ペーストしておきます。

【続きを読む】
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【事件・人 質問2】「ブラッディ・サンデー事件」とは。

【事件・人 回答2】
Bloody Sunday (「血の日曜日」) 事件は、1972年1月30日、北アイルランドのデリー(ロンドンデリー)で起きた、英軍による、非武装の一般市民に対する銃撃事件のことです。銃撃により13名がその日に死亡、1人が後日死亡し、13人が負傷しました。死亡した人たちのうちの5人は背後から撃たれていました。

まず、デリーの場所。(Multimap.comではLondonderryと入力しないと「デリー」を出してくれないのですが。)


この事件を「ドキュドラマ」形式で再現して描いた映画が、ポール・グリーングラス監督の『ブラディ・サンデー』です。映画の基になったのは、当時目撃者に聞き取り調査したときの調書をまとめたもの。(「続きを読む」の下に詳細。)

この下には、2007年1月30日、事件からちょうど35年の日に本館にポストしたものを、原則としてそのまま貼り付けます(ほんの少しだけアップデートしてあります)。
http://nofrills.seesaa.net/article/32437581.html

【続きを読む】
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2009年01月17日

【質問28】 ナショナリストのエリアにチェ・ゲバラの壁画がある理由は。

【回答28】
derry-che-300.jpgエルネスト・チェ・ゲバラはアルゼンチン生まれですが、お父さんのエドゥアルド・ラファエル・エルネスト・ゲバラ・リンチは、「リンチ Lynch」というファミリーネームから明らかなようにアイルランド系です。家系としては、1715年にゴールウェイに生まれたパトリック・リンチという人にさかのぼれるのだそうです。(チェ・ゲバラはアイルランドのほか、バスクの血も受け継いでいます。)

この点については、下記ページが詳しいです。
Che Guevara's Basque & Irish Roots
Seán Mac Mathúna
http://www.fantompowa.net/Flame/che_guevara_irish_roots.htm

チェ・ゲバラについて、その暗殺後にお父さんが述べた言葉に「アイルランド」が出てきます。
"The first thing to note is that in my son's veins flowed the blood of the Irish rebels, the Spanish conquistadores and the Argentinean patriots. Evidently Che inherited some of the features of our restless ancestors. There was something in his nature which drew him to distant wanderings, dangerous adventures and new ideas."
http://en.wikipedia.org/wiki/Che_Guevara


デリーにある壁画には、この言葉から「息子の体にはアイルランドの反乱を行なった人たちの血が流れていた」という部分が抜粋されています。

http://www.fanpop.com/spots/ireland/images/3218063

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2008年12月24日

【質問27】 「紛争」中のベルファスト、クリスマスの様子は。

【回答27】
今から30年前、1978年のクリスマスの時期にオーストラリア人記者がベルファストを取材したフィルムが、BBCのサイトにアップされています。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/7792046.stm

英語の聞き取りなんかできなくっても見ればわかりますから、見てください。

1978年というと、こういう年です。
http://cain.ulst.ac.uk/othelem/chron/ch78.htm


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2008年12月23日

【質問26】 「ロング・ケッシュのホワイトノイズ」とは。

【回答26】
1970年代、北アイルランドでは治安当局から「カトリック」の人々に対し、実質的に「拷問」と呼べることが行なわれていました。その「拷問」で音が使われました。

EntertainmentWhite noise in a white room
White noise in a white room
White noise in a white room
White noise in a white room

Trapped in heaven life style (locked in Long Kesh)
New looking out for pleasure (H-block torture)
It's at the end of the rainbow (White noise in)
The happy ever after (a white room)

Dirt behind the daydream
Dirt behind the daydream
The happy ever after
Is at the end of the rainbow

―― Gang of Four, "Ether"
http://ie.youtube.com/watch?v=-dH6FltYv2Q

上記は1979年にリリースされた英国のバンド、Gang of Fourのファースト・アルバム、Entertainment! の1曲目です。「ロング・ケッシュのホワイトノイズ」のこと、「Hブロックの拷問」のことをストレートに歌詞にした(ちなみにこのGang of Fourは中国の「四人組」のことではなく、ポスト構造主義の「四人組」のほう。バルトとかフーコーとか。)

「ロング・ケッシュ Long Kesh」は「メイズ刑務所 Her Majesty's Prison Maze」の旧称・愛称(刑務所に「愛称」もあったものではありませんが、「通称」というより「愛称」に近いと思います)。元々は英空軍の施設だった場所が、1971年の「インターンメント」導入(英軍とRUCのデメトリウス作戦)で「ナショナリスト/リパブリカンの隔離施設・強制収容所」として利用されるようになったものです。(「インターンメント」、「デメトリウス作戦」については稿を改めます。)

当初はつかまえてきた人たちは英空軍時代のニッセンハット(かまぼこ型の建物)に放り込まれていたのですが、1970年代半ばに鉄筋コンクリートのHの字型の刑務所然とした建物(「Hブロック H-blocks」と呼ばれます)が建設され、このHブロックで1981年のハンガーストライキをはじめとする多くのことが起こります。それはまた稿を改めて。

1971年8月、デメトリウス作戦で身柄を拘束された人たちの中に、施設に到着するやいなや頭に袋をかぶせられた人たちが14人います。彼らは "hooded men" とか、"Guineapigs" と呼ばれています。彼らは英治安当局の「尋問方法」の実験台にされました。

この「尋問方法」が、一般に「5つのテクニック the five techniques」と呼ばれている方法です。

英語版ウィキペディアから:
http://en.wikipedia.org/wiki/Five_techniques

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