現在進行中の事件などに関しては、本家およびはてなブックマークをご参照ください。

2014年06月29日

「ドラムクリー紛争」(1995〜)とは何か。「オレンジ・オーダー」とはどのような団体か。

毎年7月12日はプロテスタントの「対カトリック戦勝記念日」である。1690年、プロテスタントのオレンジ公ウィリアムが、「ボイン川の戦い the Battle of the Boyne」において、カトリックのジェイムズ2世を破ったことを記念するお祭りの日だ。むろん、カトリックの側は何もしない。プロテスタントが、鼓笛隊を引き連れて、勝ち誇って街を練り歩く日である。この日は北アイルランドでは、「ザ・トゥウェルフス the Twelfth」と呼ばれている。ただの「祭り」というより「宗教行事」の色彩が強い。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Twelfth

この記念日、前夜(11日)の街々での(時には近隣に危険を及ぼすほど)巨大なかがり火(ボンファイア)と12日当日のパレードは毎年夏の「風物詩」である……と書いて終わることができるような平和で楽しいものではない。「北アイルランド」の歴史は、「プロテスタントが勝ち誇る祭り」にカトリックがいい顔をするような歴史ではない。毎年この時期になると、「過去を記念すること」にものすごい熱意を傾ける人々の間からいろんな種類の煙が上がり、その多くは非常に政治化される。その政治化の度合いが、2000年代以降は北アイルランドの「ピース(平和、和平)」のあり方と連動している。

ベルファストでも、「フラッシュポイント」と呼ばれる地域(特に北ベルファストのアードイン地区)では、パレードをするプロテスタントの側と、「征服者」に勝ち誇られるカトリックの側の間で挑発・にらみ合いになり、時には「暴動 riot」と呼ばれる事態となって警察の放水車が大活躍する(このため、「毎年夏の水かけ祭り」のように見えることすらある)。が、1998年のグッドフライデー合意体制で設立された「パレード委員会 the Parades Commission」がパレードのルートや時間帯を決め、プロテスタントの団体がその範囲で行事を粛々と行なう限りは、「特に何事もなく平和裏に終了する」ことが多い。

しかし、「パレード委員会」が設立されるまでは好きなようにパレードするのが常だったプロテスタントの側では、過激派(というか強硬派)が同委員会について「われわれの歴史と伝統を否定する存在」と目の敵にしている。IRAとシン・フェインを同一視する彼らにしてみれば、パレード委員会とは「IRAがわれわれの歴史と伝統をつぶすために作ったシステム」であり、断固として NO! な存在なのである。もちろん、こういう強硬派の人々は、1998年のグッドフライデー合意(GFA)をはなっから支持していない。2007年以降、自治政府でシン・フェインと権限分担しているDUPも、元々はGFAに強硬に反対していた。宗教的にも(キリスト教根本主義、急進的カルヴァン主義)、政治的にも(プロテスタントの優越)、DUPは本来ならシン・フェインとの権限分担などできるはずもない主義主張で、それが今のようなことになったのは運命のいたずらでなければ政治的計算の結果にすぎない。

前置きが長くなったが、この「パレード委員会」の設置という新たなシステム構築の直接的な契機となったのが、1995年以降の「ドラムクリー紛争」である。
http://en.wikipedia.org/wiki/Drumcree_conflict
http://cain.ulst.ac.uk/issues/parade/develop.htm


1994年夏、IRAが停戦を宣言し、ロイヤリスト武装組織のアンブレラ・グループも停戦を宣言し「(低強度の)武力衝突」がついになくなるのかなと思われた翌年、新たに「紛争」の火種となったのが「夏のプロテスタントのパレード」だった。

※以下、2011年7月に本家ブログに書いたものに加筆・改稿。

北アイルランド、カウンティ・アーマーにポータダウンという町がある。町としては17世紀にはすでに存在していたが、19世紀に鉄道が敷設されてから開け、リネン工場などで賑わったようだ。周囲の町とあわせて人口は22,000人くらい(2001年センサス)。住民はずっとプロテスタントが多数を占めてきたが、1960年代終わりに「北アイルランド紛争」の局面に入るとカトリックとプロテスタントの居住エリアが完全に分かれた。(ウィキペディアの「ポータダウン」の項より。)

この小さな町が7月になるとニュースになるのは、「オレンジ・オーダー」のパレードが行われるからだ。

まずはこの「宗教的強硬派」の成り立ちをみておこう。

1790年代、宗派を問題とせずにアイルランドのブリテンからの独立を目指したナショナリストの運動、「ユナイテッド・アイリッシュメン」(ウルフ・トーンの)の時代、彼らとは逆に「カトリックに対するプロテスタントの優位」を信条とするプロテスタント(アングリカン、およびその他の宗派)の人々がいた。彼らの活動域がカウンティ・アーマーの北部で、ここでは「プロテスタント対カトリック」の構図での紛争がみられた(双方が「自警団」を結成し活動していた)。そのプロテスタントの集団が前身となって、1796年に発足したのがオレンジ・オーダーである。(ウィキペディアの「オレンジ・オーダー」の項より。)

オレンジ・オーダーの結成の地は、ポータダウンの西に少し行ったところにあるラフゴール(Loughgall)という場所だ。


大きな地図で見る

1796年7月12日、「プロテスタント」のウィリアム3世(オレンジ公ウィリアム)が「カトリック」のジェイムズ2世を破った1690年の「ボイン川の戦い」を記念して、彼らオレンジ・オーダーの最初の行進(パレード)が、ポータダウン、ラーガン、ウォーリングスタウンを結ぶルートで行われた(上の地図でそのまま真東の方へ目を屋やると地名が見つかる)。

この時期、ユナイテッド・アイリッシュメン(しつこいようだが、中心となった人々はプロテスタントが多かった)のナショナリスト運動が勢いを増しており、当時アイルランドを支配下に置いていた英国(ブリテン)は彼らの勢いをそぐため、「セクタリアン(宗派)」というカードを切った……このへんのことをウィキペディアで読んでみると、「歴史は繰り返す」感に襲われて身動きが取れなくなるほどだが、要するにポータダウンという町はオレンジ・オーダーにとって「発祥の地」という意味を有する、というのがポイント。

さて、このポータダウンの町の中心から北に少し行ったところに、「ドラムクリー Drumcree」という地名がある。ここが1995年以降、毎年7月の北アイルランドのホットスポット中のホットスポットとなる。

ドラムクリーには教会がある。中世から続く教会で、宗教改革の時代にチャーチ・オヴ・アイルランドの教会となった。

チャーチ・オヴ・アイルランドはチャーチ・オヴ・イングランド(イングランド国教会)、つまりアングリカンで、イングランドの国家元首をトップとする。なお、間違いやすいが、スコットランド国教会は宗派が違う(プレスビテリアン、つまり長老派)。また、「アルスター」で勢力が強いのはアングリカンよりむしろ、プレスビテリアンやメソジストといった、非国教会のプロテスタントの宗派である。英国の支配下にあった時代は、アイルランド全体ではアングリカンが国教とされており、強い勢力を有していた(サミュエル・ベケット、ウィリアム・バトラー・イエイツなど「アングロ・アイリッシュ」と呼ばれる人々の宗派がチャーチ・オヴ・アイルランドである)。

チャーチ・オヴ・アイルランドは、1869年の教会法(1871年発効)でアイルランドの国教ではなくなり、このときにドラムクリーの教会もその地所の多くを失った……といったこともウィキペディアには書かれているのだが、その書かれていることの意味を把握できるほどの知識は、残念ながら私にはない。この辺、もっと勉強せんといかん。

ともあれ、ドラムクリー・チャーチは、いかにも「アイルランドらしい」田園風景のなかにたたずむ、小さくて質素な教会である。下記、Google Street Viewでもう少し道なりに進んでいくと、左手に牛ちゃんが放牧されていたりするんだが、その風景などたまらないものがある。しかも撮影された日の天候が、すばらしくよいのだ。


大きな地図で見る

こんなのを見ていると長閑な気分になるのだが、ここは激しい対立の場となるのが常である。

なぜここが対立の場となるか。上述した「オレンジ・オーダーのパレード」は、今なお「プロテスタントの伝統」として行われている。元々が「プロテスタントがカトリックを打ち負かしたことをお祝いする行事」であり、また主催者が「プロテスタントのカトリックに対する優越性」を信じる人々であり、つまりそのパレードは本質的にセクタリアンなものである。

だからこそ毎年7月を中心とするプロテスタントのパレードの季節 (marching season) は、北アイルランドのあちこちでいろいろと緊迫するし、にらみ合いは発生するし、「暴動 riots」と呼ばれる事態にもなる。

が、ドラムクリーがほかのどこにも増して緊迫するのは、パレードのルートのせいである。

教会は小高い丘にたっているが、教会の前の道をそのまま、道なりに降りてくると、やがて大き目の道路に突き当たる。この道路が、Garvaghy Road(ガルヴァーヒー・ロード、という感じの音)というのだが、この一角はポータダウンというこの町でナショナリスト・カトリックしか住んでいないエリアである。

上述したように、ポータダウンは元々プロテスタントが多い町だったが、それでもかつては住宅街ではある程度は混住が見られた(「プロテスタントの家の隣はカトリックの家」という感じになっていた)。しかし「紛争」が始まると、カトリックとプロテスタントが完全に分かれて住むようになった。Garvaghy Roadはそうして「カトリックだけの住宅街」となった。けれども「紛争」よりずっと前から行われていたプロテスタントのパレードのルートは、その「カトリックのエリア」を通過する。下記ウィキペディアの地図が見やすいのだが、BがこのGarvaghy Roadで、それと並行するAのObin Streetにかけての一帯が「カトリックのエリア」だ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Drumcree_conflict#Map

ぶんすかぶんすかぴーひゃらぴーと鼓笛隊を伴ったパレードが粛々と通過するだけではなく、17世紀のことを引っ張りだしてきて「プロテスタントはカトリックに勝ちました」、「プロテスタント>>>カトリック」的なメッセージを発するのが目的なので、通過されるカトリックの人々にはおもしろくないどころか、「挑発」とうつる。

それでも、ウィキペディアに詳しく書かれているのだが、80年代にタウンセンターの方(Obin Street)でいろいろあったあとは10年ほどはわりと平穏だった。

その「わりと平穏」だったころ、1990年に撮影された映像。定点カメラで淡々と、パレードが行き過ぎるのを撮影している。先頭から末尾まで、二列のパレードが通過するのにかかる時間は5分半くらい。
http://www.youtube.com/watch?v=LPYYn5w8T1s

パレードに参加しているのは、肩にオレンジのサッシュをかけた男性たちで、女性は、鼓笛隊の中にいる小学生か中学生くらいの子だけだ。(オレンジ・オーダーは徹底して「男尊女卑」で、「女は表に出なくてよい」という思想である。)この鼓笛隊が「アルスターのプロテスタント」の象徴で、スコットランドのレンジャーズFCにいたときのポール・ガスコインがピッチで「フルートを吹くまね」をし、セルティック(の観客席)を挑発して問題になったことがある。

なお、男性たちのサッシュは、The Sash My Father Woreという曲に歌われている通り、プロテスタントのカトリックに対する勝利を記念し、父親から息子へと代々受け継がれるものだ。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Sash
It is old but it is beautiful, and its colours they are fine
It was worn at Derry, Aughrim, Enniskillen and the Boyne.
My father wore it as a youth in bygone days of yore,
And on the Twelfth I love to wear the sash my father wore.


ともあれ、この1990年の映像を見ると、警察の警護もほとんどなければ、パレードが過ぎた1メートル後には、パレードに参加していない人たちが道路を横断しているという状況で、おそらくポータダウンの中心部(「カトリックのエリア」とは離れている)で撮影されたものなのだろうけれども、私などがニュースで見慣れた「ドラムクリー」とはかけ離れているので逆にびっくりする。

「ドラムクリー」が騒がしくなったのは、1995年以降である。この前年、1994年にIRAは停戦を宣言、続いてロイヤリスト各組織も停戦を宣言し、英メイジャー政権下、政治の局面では「交渉」が行われ、非常に緊張した状況にあった。

上述した、パレードの通過する「カトリックのエリア」では、「わざわざカトリックのエリアを通らんでもいいだろう」ということで、ルート変更を求める地域住民たちが、Garvaghy Road Residents Coalition (GRRC) として結束した。これが普通に「不満を抱いた地域住民」ならば、ひょっとしたら事態はここまで混迷しなかったかもしれない。だが、実際には、GRRCのスポークスマンとなったブレンダン・マッケンナはIRAの爆弾攻撃で有罪となったリパブリカンだった。「ドラムクリー」について、プロテスタント、というかロイヤリスト側の言いたい放題の場(YouTubeのコメント欄など)で「地域住民っていうかIRAでしょ」という発言がなされていることがよくあるが、それはこのことを指す。

余談だが、ブレンダン・マッケンナは現在、シン・フェイン主流派を離れ、Eirigiのスポークスマンをしている。

GRRCは行政に対し、パレードのルート変更を求めるなどしたが奏効せず、1995年7月のパレードに際し、道路に座り込むという方法で抗議を行った。ウィキペディアに詳しいが、オレンジ・オーダーのパレードは当局の許可を得ており、一方で住民の座り込みは無許可だったにも関わらず、警察は衝突を避けるため、オレンジ・パレードがGarvaghy Roadに入らないようにブロックした。

オレンジ・オーダーが「じゃあ」っていってぐるっと迂回するような人たちなら、こじれはしない(なお、丘の上にあがって向こう側を降り、プロテスタントのエリアを通って、ポータダウン市街に来ることは可能である)。しかし、何しろこれは「伝統」、「古いけど美しいお父さんのサッシュ」の行事なのだ。変えることなど考えられない。しかも「カトリックの圧力に屈する」など!

というわけで、オレンジ・オーダーの人々は教会に立てこもった。

その間、カトリックの住民団体GRRCと地域の政治家、警察、民間グループ(Mediation Network)による交渉が行われたが、オレンジ・オーダーはGRRCとの交渉は拒否した。

これは当時、DUPがシン・フェインとの交渉を全面的に拒否していたのとパラレルである。

しかしDUPとシン・フェインの今の様子(こないだなんて全米オープン覇者にコーチしてもらいながら一緒にゴルフしてたし)から考えると「隔世の感」としか言いようがないが、当時は……というかつい最近までは、「DUPを翻意させようとしても無駄」と考えられていたのだ。それを翻意させたのが何だったのかは、まだ十分には語られていない。

閑話休題。1995年7月のドラムクリー。教会に居座ったオレンジ・オーダーの人々(最大で1万人)は、1000人規模の警官隊と対峙することになった。オーダー側から警官側にはもの(石、瓶など。火炎瓶があったかどうかまでは調べてない)が投げられ、警官側はプラスチック弾(いわゆる「ゴム弾」と同様の「非致死性」のもの)を24発発砲して応じた。また、北アイルランド全域で、ドラムクリーのオレンジマンを支援する動きが見られ、道路の封鎖、ラーン港の封鎖など、かつての「プロテスタントのストライキ」ですかという状況になった。

そしてにらみ合いが始まった翌日、7月10日の夕方、DUPのイアン・ペイズリーと、UUPのデイヴィッド・トリンブル(←この人、グッドフライデー合意のせいで「穏健派」とか言われてるけど、実際にはUUPの中の最強硬派)がドラムクリー教会で集会を開いた。このときのペイズリーのアジ演説がYouTubeで見られる(ちゃんと見てないけど)(をい)
http://www.youtube.com/watch?v=LxEjzSlbHvY

こうして人々を煽っておいて、彼らは警察のバリケードの突破を試みた。このときは警察に押し返されたが、相当のもみ合いになった。

「北アイルランド紛争」が「IRAと英軍&プロテスタント武装組織」のものと思い込んでると、こういうのの意味はわからない。私もその「わからない」ところから調べることを始めたのだが。

そして7月11日、ようやく落としどころが見つかって合意。いわく、オレンジ・パレードの側は、音を立てずに、鼓笛隊を連れずに行くという条件で、カトリックの住宅街を通ってよい。そして座り込みをしていたカトリックの人々は道路を開け、いよいよパレードが到着、そのとき!

DUP党首、UUP党首そろって「勝利のポーズ」。

お前ら小学生か、みたいな。

続く1996年(2月にIRAが停戦を破ったあと)も、パレードがここを通る、通らないでもめにもめた。警察は当初、パレードの側に通行を禁止していたのに、その方針を180度覆した。これでカトリックの人々が怒って、ラーガンとかベルファストとかデリーとか、カトリックの強いところそこらじゅうで暴動。これに応じて警察が「暴徒鎮圧」、ただしカトリックに対してはプロテスタントに対するのとはまったく慎重さの度合いが違い、数千発のプラスチック弾を発砲(北アイルランドではプラスチック弾での死者が非常に多く出ており、その使用は長く問題視されてきた)。これでよけいに、「警察は信頼できない」という固定観念が強まった。

そして1997年。「パレード禁止したらカトリックの一般人を殺す」という警告が、LVFによって出された。LVFとは、ロイヤリスト武装組織UVFのミッド・アルスター・ブリゲードがUVFを「破門」されて独立した組織(といってよいだろう)。当時、和平に向けて動いていたUVFの本部にはコントロールできないほど過激で暴力的な一派で、そのリーダー、ビリー・ライトはポータダウンを拠点としていた(ライトは出身はイングランドだが両親は北アイルランドの人で、本人も育ったのは北アイルランドだ)。ライト自身、この年の年末に、脅迫容疑で有罪となって入れられたメイズ刑務所の中でリパブリカンの超過激派INLAのメンバーに射殺されたが、LVFという組織はその後もそのまま残っている(2011年、そのLVFも出てきてるらしいということだったが)。

このような「プロテスタントの排外主義的なパレード」をめぐる行政・政治の体制が現在の形になったのは、1998年のことだ。ウィキペディアより:
Early in 1998 the Public Processions Act was passed, establishing the Parades Commission. The Commission was now responsible for deciding what route marches should take.

つまり、「パレード委員会」ができたのである。警察が申請されたルートを検討するのではなく、専門の機関をおいて、オレンジ・オーダーのマーチのような宗派ベースのパレードについて監督していこうというものだ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Parades_Commission

これに対し、「お上が決めたことだから」……となるはずがなく、オレンジ・オーダーは「われわれの伝統にケチをつけるのか」と大反発。そっちはそっちで勝手にやってれば、的な態度を取っている。あんたたちのために設置された機関だっつーの。。。

この年の12thには非常に悲しい、許しがたい事件が起きている。ポータダウンとはネイ湖を挟んで反対側の北の方にあるバリーマニーという町のプロテスタントのエリアに暮らすカトリックの母親の家に、早朝4時半ごろ、ロイヤリストによって火炎瓶が投げ込まれた。この結果、9歳から11歳の3人の子供が焼け死んだ。この家族は、母親はカトリックだったが、彼女のパートナーはプロテスタントだった。子供たちは母親の宗派で育てられていたが、学校はプロテスタントの学校に通っていた。

この事件は、ポータダウンというかドラムクリーでのあれこれに対するプロテスタントの反発、という文脈で起きたものだ。
http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/july/12/newsid_2500000/2500503.stm

事態とは無関係の子供たちを3人も殺したこの事件で、オレンジ・オーダーも強硬な姿勢を貫くことの無意味さを……悟らないのよ。

そのときは反省はするんだけど、すぐに「だがこちら側よりあちら側が」の理屈が出てきて、最終的には「われわれはローマ法王の支配は受けない!」で「おー」と団結するので。

1999年、2000年と、「毎年恒例」と化した騒ぎが続いたドラムクリーは、それでも、2000年代は比較的平穏が保たれてきた。ウィキペディアを見ると、ポータダウンからあのへん一帯の外からのオレンジマンへの支援が減少している、という。

北アイルランド紛争とその残滓を見ていると、人々はどこまで、主義主張や信条のために人を殺し、死なせることに納得できるのか、というのが問題の中心にあると思う。

その最もエクストリームな形が、例えばIRAとINLAの1981年のハンストであったり(IRAは最も「有能な義勇兵」の何人かを餓死させた)、マイアミ・ショーバンド事件やキングズミル事件のような「敵対する勢力に属する一般市民の問答無用の処刑」であったりする。もはやどのような主義主張を持って来ても異常、というような。

一方で、それらに比べればあからさまな「暴力」ではない宗教勢力の優越主義の顕示は、これは一体何なのだろう。「想像された共通の伝統の維持」?

本稿の最後に、1998年の記事を。

Siege of Drumcree
Sunday, July 5, 1998 Published at 18:52 GMT 19:52 UK
http://news.bbc.co.uk/2/hi/events/northern_ireland/focus/127075.stm

このころ、オレンジ・オーダーなどプロテスタント強硬派の主張に頻繁に見られた "right to march" (行進する権利)というキャッチフレーズは、2007年にストーモントの自治議会・政府がDUPとシン・フェインの権限分担のもとで再起動してから、前ほど聞かれなくなった。


posted by nofrills at 08:00 | TrackBack(0) | 主な事件・人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

※誤訳・誤記・誤変換などのご指摘やエントリの内容についてのご質問などは、
コメント投稿専用エントリのコメント欄にお寄せください。


この記事へのトラックバック




*参考書籍*

北アイルランド紛争についての英書

英語ではとても読みきれない(買いきれない、収納しきれない)ほどの本が出ていますが、筆者は特に下記の書籍を参照しています。
※画像にポインタを当てると簡単な解説が出ます。

031229416607475451970717135438
The IRA
Tim Pat Coogan
Loyalists
Peter Taylor
Killing Finucane
Justin O'Brien

北アイルランド紛争について、必読の日本語書籍
筆者はこのブログを書く前に、特にこれらの書籍で勉強させていただいています。

4621053159 4846000354
IRA(アイルランド共和国軍)―アイルランドのナショナリズム
アイルランド問題とは何か
鈴木 良平

北アイルランド紛争の歴史
堀越 智

IRA―アイルランドのナショナリズム(第4版増補)
鈴木良平

458836605X
暴力と和解のあいだ
尹 慧瑛
→「北アイルランド」での検索結果
→「Northern Ireland」での検索結果
* photo: a remixed version of "You are now entering Free Derry",
a CC photo by Hossam el-Hamalawy
http://flickr.com/photos/elhamalawy/2996370538/


×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。