http://www.belfasttelegraph.co.uk/photo-galleries/article13909724.ece
見出しに「2組目」と書いてあるエントリでは、本館での2番目の紹介記事で言及したものを扱っています。
なお、以下に貼り付けるURLは既に変更になっています(写真が差し替わっています)。このため、参照すべき写真をサムネイルのサイズにし、どういう写真なのかがわかる程度にした状態で添付しますので、それを参考に上記URLから探してください。

「ベルファストのディヴィス・ストリートで、バリケードごしに兵士たちに話しかける男性。1969年8月16日」。
デリーでの「ボグサイドの戦い」が8月12日、デリーやベルファストへの英軍の派遣が14日です。
http://cain.ulst.ac.uk/othelem/chron/ch69.htm#Aug
このときは、「ナショナリスト・コミュニティ」対「ユニオニスト・コミュニティ&自治政府」の暴力の仲裁役として、外部の者として英軍が投入された段階で、ナショナリスト・コミュニティから英軍への敵意はほとんどありませんでした。バリケードは、ユニオニストの暴力からナショナリストを守るものでした。女性たちはパトロールの英軍兵士にお茶とお菓子を振る舞いました。(以前本館で書いていると思います。)
この点をちゃんと見てください。ナショナリストは、最初っから英軍を「敵」と見なしていたわけではありません。
この後に、ナショナリストの中でも「英軍は敵」と見なす思想を有する勢力(つまり「リパブリカン・ムーヴメント」)が「支持」を集めたのは、英軍がそもそも「中立の仲裁者」などではなく、ユニオニスト&自治政府側だった、ということが彼らの目にはっきり見えたからです。ここで、「植民地支配からの脱却」という思想が絡んでくる。うちらでもよく知っているような「IRAのプロパガンダ」(とユニオニスト側が呼ぶもの)が――つまり「何世紀にも及ぶ支配と搾取」という例のあれが多くの「支持」を集めたのは、その「プロパガンダ」に説得力があったからです。それ以前に、「プロパガンダ」と呼ばれていたものの多くの部分が単に「歴史的事実」だったということも極めて重要ですが。(実際に、「アイルランド人」は小作農として搾取されていた。英国は「カトリック」の権利を制限する法律を有し、19世紀までそれを撤廃しなかった。北アイルランドでは「カトリック」に対する差別的待遇は20世紀にも続いていた。……などなど。しかしこの点については、アイルランド共和国、特にエイモン・デヴァレラのスタンスも見る必要があります。)
なお、北アイルランド紛争の時期を通じて、ナショナリスト側の最大政党だったのは、シン・フェイン(「リパブリカン・ムーヴメント」)ではなくSDLPだった、という事実は、見過ごされていますが、非常に重要です。