http://www.belfasttelegraph.co.uk/photo-galleries/article13909724.ece
見出しに「2組目」と書いてあるエントリでは、本館での2番目の紹介記事で言及したものを扱っています。
なお、以下に貼り付けるURLは既に変更になっています(写真が差し替わっています)。このため、参照すべき写真をサムネイルのサイズにし、どういう写真なのかがわかる程度にした状態で添付しますので、それを参考に上記URLから探してください。

「過激派ルック」の人々が14人、横に並んで道路を封鎖しています。キャプションは「モート・ロードのUDAの検問所。1972年6月8日」。
1972年の6月というと非常に大きな動きがあった時期です。6月っていうか5月末ですが(29日)、Official IRAが停戦を宣言しています。彼らはこれを最後に武装活動から退いたわけで、これ単独でもNI紛争の上ではひとつの大きな動きでした(でも後からのあれこれで相対的には小さなことになっているかも)。
そして、先にも書いたようにIRA (Provisional IRA) が停戦しています。詳しく書けば、6月20日にドニゴールとデリーの境界のエリアで英政府とIRA代表団との会談があり(英政府側はNI担当大臣Whitelawの代理、IRAからはDavid O'Connell (Dáithí Ó Conaill) とジェリー・アダムズ【←ツッコミ入れたい人も、今はスルーしてください】)、「26日に停戦する」と22日に宣言、実際に26日に停戦しています。そしてその後、30日に警戒を高めたUDAが自身の no-go areas を作り始めます。(No-go areaとは「警察・軍立ち入り禁止エリア」のこと。そのエリア内ではパラミリタリーが警察の役割を勝手に果たす。)7月3日には、このno-go areaをめぐってUDAと北アイルランド警察(RUC)が衝突する事態となっています。そして7月7日には再度、英政府とIRAとの秘密会談(←リンク先、当時の記事)。しかしその時期も英軍によってカトリックの人が射殺されるなど、実際には「停戦」は看板だけという状況で、7月22日にはついに「ブラディ・フライデー」(後述)、事態は泥沼化しました。
http://cain.ulst.ac.uk/othelem/chron/ch72.htm#Jun