1980年のハンストについては、参加者の名前で検索すれば、インタビューなどがけっこう出てくるのではないかと思います。参加者の名前は英語版ウィキペディアで確認できます。
「続きを読む」以下に、1980年ハンストで主導的な立場にいたブレンダン・ヒューズが亡くなったとき(2008年2月)の本家でのエントリを、訃報としての追悼の部分を削除して、コピペします。(長いけど。)それと、2008年12月にもうひとりの80年ハンガーストライカー、ショーン・マッケンナが亡くなったときのエントリも。
サンズの1981年ハンストは、ヒューズの1980年ハンストの延長線上にあるものです。81年のハンストが「10名死亡」というあまりに衝撃的な展開になり、後への影響も大きかったために、80年のハンストは見過ごされがちですが。
では、ここからコピペ。
2008年02月18日 【訃報】ブレンダン・ヒューズ(1980年IRAハンスト時のリーダー)
http://nofrills.seesaa.net/article/84692395.html
ブレンダン・ヒューズが59歳で亡くなった。ヒューズは2000年ごろから「武装闘争に反対、グッド・フライデー合意体制に反対」の立場を鮮明にしてきた元IRA闘士にして、1980年のハンストのリーダーだ。
Former hunger striker Hughes dies
Last Updated: Sunday, 17 February 2008, 09:42 GMT
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/7249225.stm
Former IRA hunger striker Hughes dies
Last Updated: 17/02/2008 14:48
http://www.ireland.com/newspaper/breaking/2008/0217/breaking12.html
RIP Brendan Hughes
Saturday February 16, 2008 22:39
http://www.indymedia.ie/article/86287
Brendan Hughes Dies.
http://www.politics.ie/viewtopic.php?t=31864
BBC記事にあるジェリー・アダムズの「お悔やみのことば」よりも、indymedia.ieやpolitics.ieに投稿されている一般の人々のことばを読んだ方が、この人がどういう「存在」だったかがはっきりとわかるだろう。
ブレンダン・ヒューズは、1980年10月、北アイルランドのメイズ刑務所(ロング・ケッシュ)で、「政治犯」としての待遇(一般犯罪者と同じ「囚人服」ではなく私私服の着用)を求めて、リパブリカン(Provisional IRAとINLA)が行なったハンガーストライキ(第一次ハンスト)のときの、メイズのIRAの司令官(Officer Commanding: OC)だった。
第一次ハンストは、サッチャー政権側からの条件提示があったことと、ハンガーストライカーのひとりが昏睡状態に陥ったことで、53日目に打ち切られた。その打ち切りの判断をしたのもヒューズだった。(なお、このときの政権側からの「条件提示」は相手のことば尻を取ったような形で一見相手の要求を飲んだかのように思わせるものだった。)
後にヒューズはこのハンストの経験を次のように回想している。You lose the fat first. Then your muscles start to go and your mind eats off the muscles, the glucose in your muscles and you can feel yourself going. You can actually smell yourself rotting away. That was one of the most memorable things for me: the smell, the smell of almost death from your own body... Your body starts to eat itself. I mean that's basically what happens during the hunger strike, until the point where there's no fat left, no muscles left, your body then starts to eat off your brain. And that's when your senses start to go. Your eyesight goes, your hearing goes, all your senses start to go when the body starts to eat off the brain.
大意:
まず脂肪が落ちる。それから筋肉が落ち始める。精神活動が筋肉を食う。筋肉内のブドウ糖が頭に回される。そして自分が死ぬということが感じられる。実際に、自分の身体が朽ちていくのがにおいでわかる。最も強く記憶に残っていることのひとつが、そのにおいだ。自分の身体から立ち上る、死とすれすれのにおい。自分の身体が自分の身体を食い始める。ハンストをすればそういうことになる。脂肪が完全になくなり、筋肉もすっかり落ちてしまうと、それからは身体が頭脳を食うようになる。そうなると知覚が失われてくる。目が見えなくなり、耳が聞こえなくなり、五感が失われる。
-- Brendan Hughes, 'Dying for Ireland', Insight, UTV, 27 February 2001 (from Justin O'Brien, "Killing Finucane", Gill and Macmillan, Dublin, 2005, p.39)
ヒューズが指揮した第一次ハンストから半年ほど後、ボビー・サンズが指揮官となって第二次ハンストが開始され(ヒューズは第二次ハンストに強く反対していた)、サンズを含む10人が獄中で餓死した。
ヒューズは1948年(1949年との説も)にベルファスト西部のロウアー・フォールズ・ロード地区の「祖父も父も母もリパブリカン」の家に生まれた。「子供のころの友達はみんなプロテスタントだった」が、1969年にアイリッシュ・ナショナリズムの立場でいう「ポグロム」(プロテスタントの多い地域でカトリック住民に対する焼き討ちが起こり、B-スペシャルズがDivis Streetでカトリックに対して銃撃を行なうなどした)が始まったころにIRAに入り(Official IRAとProvisional IRAの分裂後はProvosに)、1970年には既に当局に手配されていた。1971年にはリパブリカン同士の争いで、いとこをOfficial IRAに射殺されている。まさに「北アイルランド紛争」の最初から、リパブリカンのファイターとして関わってきた人のひとりだ。
このころのことを彼は後に次のように語っている――「秘密の集会所があり、午前中は銀行を襲い、午後には街を車で流して英兵の居場所を把握し、爆弾を仕掛け、夜には銃撃戦、というようなことがあってもおかしくなかった」。
1973年7月19日、フォールズ地区での一斉拘留(インターンメント)のときだと思うが、ヒューズはジェリー・アダムズ、トム・カーヒルといった人たちと一緒に当局に身柄を拘束され、警察(RUC)で「苛烈な尋問」(「拷問」のユーフェミズム、もしくは法的に「拷問」と定義されない「拷問」)を受け、ロング・ケッシュへ送られた。
同年12月8日、ヒューズは丸められたマットレスの中に入って(クレオパトラのように)ロング・ケッシュから脱走、南北のボーダーを越えてダブリンに入り、そこで新しい身分証を得て「おもちゃのセールスマン」としてベルファストに戻り、新たな名前で生活を始めた。だが1974年5月にはタレコミのために逮捕、当時住んでいた住居からサブマシンガンだのライフルだの拳銃だの弾薬だのが発見され、(当時の非常に「簡略化」された法的手続きを経て)懲役15年を言い渡される(その後、看守への暴行が原因で刑期に5年上乗せ)。そして1976年3月にはロング・ケッシュのH-ブロックに身柄を送られた。
1976年3月というと、1972年にIRA側との交渉の末に保守党政権で打ち出されたテロ組織メンバーに対する「特別カテゴリ (Special Category Status)」が終わって、「政治犯」(北アイルランド紛争においては事実上の「戦争捕虜」)も一般の犯罪者と同じ待遇を受けることになったときである。
このあたりのことは、テリー・ジョージ監督(『ホテル・ルワンダ』など)のフィクション映画、"Some Mother's Son" (日本未公開、DVDなし、VHSは中古のアメリカ版が入手できなくはない。このエントリの最下部参照)が、長い話をかなりはしょってわかりやすく描いてくれている。
「囚人服を着せられるくらいなら裸で毛布をかぶっているほうがましだ」というわけで、「囚人服」への抗議として1976年9月に開始された「ブランケット・プロテスト」に、ヒューズも参加した。「参加した」というか、このときヒューズはPIRAのOCになっていたのだから(ロング・ケッシュに入ってほどなくOCになったのだそうだ)、「プロテストを指揮した」と書くべきかもしれない。
1978年3月には、シャワーやトイレを使うために房を出ると看守(念のため書き添えておくが、当時の警察や刑務所のスタッフはほとんど全員が「プロテスタント」だった)に殴られたり蹴られたりするため、PIRAとINLAのリパブリカンの囚人たちは、シャワーにも行かずトイレにも行かず、排泄物は壁に塗りたくるという「ダーティ・プロテスト」が開始されるが、このいわば「うんこによる抗議行動」の開始を命令したのは、ブレンダン・ヒューズだった。「ダーティ・プロテスト」が開始された後に新たにロング・ケッシュに入れられた囚人(そのほとんどがリパブリカンである)のうち、「10人に9人」はこの「プロテスト」に参加し、規模は拡大の一途をたどった。1980年2月には女性だけの刑務所でも行なわれるようになり、そちらは排泄物だけでなく経血も壁に塗りたくられて、まさにすさまじいことになっていたという。
刑務所側は房に囚人がいるまま、壁にホースで水をかけて清掃を行なうなどしたが、すぐにまたもとの状態となり、刑務所内の衛生状態は「最悪」。
ヒューズは最終的に、このような最悪の状態をみんなで続けてもどうにもならないと判断し、開始から3年ほどで「ダーティ・プロテスト」の打ち切りを命じ、続いて7人のメンバーによるハンガーストライキに移行した(「7人」というのは、1916年イースター蜂起のときの「共和国宣言」の署名者の人数である)。
このような抗議行動のさなかの1980年1月、囚人たちは「5つの要求 (Five Demands)」を提出した。1. The right not to wear a prison uniform;
(囚人服を着用しない権利)
2. The right not to do prison work;
(刑務所での作業をしない権利)
3. The right of free association with other prisoners, and to organise educational and recreational pursuits;
(囚人同士の自由な交流の権利、教育・娯楽目的での囚人の組織化の権利)
4. The right to one visit, one letter and one parcel per week;
(1週に1度の面会、1通の手紙、1つの小包の権利)
5. Full restoration of remission lost through the protest.
(この抗議行動で立ち消えとなった減刑措置の回復)
http://en.wikipedia.org/wiki/Dirty_protest#Dirty_protest
この「5つの要求」を刑務所の外から支援したのが、デリーのブラディ・サンデー事件のときのデモを主催したひとりで、1980年ごろには「ロング・ケッシュのH-ブロック」に抗議する活動をしていたバーナデット・デヴリン・マカリスキーのthe National H-Block/Armagh Committeeで、彼女とその夫は1981年1月に自宅でロイヤリストに銃撃され重傷を負った。(このとき、バーナデットの家は英軍が警備していたのだが、ロイヤリストの実働部隊の侵入はなぜか止められなかった。)このほかにも、刑務所の外にいるリパブリカンが刑務所職員を狙撃・殺害したり、ロイヤリストが「リパブリカンの囚人支援」の活動をしている人たちを狙撃・殺害したり、といったことがあいついだ。英治安当局側がこの期間に発砲したプラスチック弾は29,695発で、ハンスト後の8年間で発砲されたプラスチック弾が約16,000発だったことと照らし合わせると、どれほど激しい状態だったかがわかるだろう(source)。
ブレンダン・ヒューズが指揮した1980年の第一次ハンストも、第一次よりも参加者を増やして実行されたボビー・サンズが指揮した1981年の第二次ハンストも、上記の「5つの要求」を求めての抗議行動だったが、10人もの死者を出した第二次ハンストのしばらく後、「要求」のうち「刑務所での作業」をめぐるものを除いてすべてが通った。最後まで残された「作業」の件も、1983年に刑務所の作業所がいろいろあって畳まれたことで「通った」形になった。
ヒューズは1986年にロング・ケッシュから釈放され、その後はベルファストで生活していた。1980年のハンストで損なわれた健康は完全に回復することはなかったという。
社会主義の立場をずっと貫いていたヒューズは、1998年のグッドフライデー合意(ベルファスト合意)後のシン・フェインにはかなり批判的で、「大義」のためにファイターとして戦い、投獄された獄中で健康を損ない、刑務所から出たあとも満足な仕事を得ることのできない「元ファイターたち」の視点から、「政治」を考えて、いくつか非常に考えさせられることばを残している。
コンテクストを無視してその「ことば」だけを見ると、全体像を見誤るかもしれないが、Slugger O'Tooleにブレンダン・ヒューズのことばがポストされている。
http://sluggerotoole.com/index.php/weblog/brendan-hughes-1949-2008/
ヒューズがなぜ「GFA後の政治体制」に強く反対していたかを語ることば:"Stormont is still there, but it is a Stormont with Republicans in it. Stormont has not changed. The whole apparatus of the Stormont regime is still there, it is still controlled by the British, it is still unjust, it is still cruel. The RUC is still there. The whole civil service are still there, the same civil servants who controlled the shoot-to-kill policy, who controlled the plastic bullets, who controlled the H Blocks of Long Kesh, who took responsibility for ten men dying. It is all still there. But, saviour of saviours, we have two Sinn Féin ministers there, who happen to close hospitals. The sad thing about all this is that the British set this up. This is the British answer to the Republican problem in Ireland. It's a British solution, it's not an Irish solution. ..."
「ストーモントはまだ存続しているが、このストーモントにはリパブリカンが入っている。しかしストーモントは変わっていない。ストーモント体制の機関は丸ごとそのまま存続している。今でも英国の支配を受け、不正で残酷である。RUCも(PSNIと名前は変えたが)存続している。(かつてカトリックに対して差別的な待遇を強いていた)民生部門もそのままだ。Shoot-to-kill(容疑者に対し、警告や負傷させて取り押さえることを目的として撃つのではなく、殺す目的で撃つこと)をコントロールしていた役人が、プラスチック弾を管理し、ロング・ケッシュのH-ブロックのことを取り仕切っていた役人が、(第二次ハンストで)死んだ10人のことに責任を負う役人が、まだそこにいる。何も変わってはいないのだ。けれども、何ともありがたいことには、今のストーモントにはシン・フェインの閣僚が2人もいてくださる。彼らはたまたま病院を閉鎖したというわけだ。こういった事態について情けないのは、すべて英国のプランだということだ。これが、アイルランドにおける共和主義/リパブリカンという問題に対する英国の回答なのだ。これは英国の解決策であり、アイルランドの解決策ではない。……」"In 1969 we had a naive enthusiasm about what we wanted. Now in 1999 we have no enthusiasm. And it is not because people are war weary - they are politics weary. The same old lies regurgitated week in week out. ..."
「1969年には、自分たちの欲しているものについて、青臭いけれども熱い思いがあった。1999年には熱い思いなど何もなくなってしまっている。それは、人々が戦争に疲れたからではない。政治に疲れたからだ。毎週毎週、また同じ嘘が繰り返されている。……」"I am not advocating dumb militarism or a return to war. Never in the history of republicanism was so much sacrificed and so little gained; too many left dead and too few achievements. ... I am simply questioning the wisdom of administering British rule in this part of Ireland. I am asking what happened to the struggle in all Ireland - what happened to the idea of a thirty-two county socialist republic. That, after all, is what it was all about. Not about participating in a northern administration that closes hospitals and attacks the teachers' unions. I am asking why we are not fighting for and defending the rights of ordinary working people, for better wages and working conditions. Does thirty years of struggle boil down to a big room at Stormont, ministerial cars, dark suits and the implementation of the British Patten Report?"
「私は武装闘争主義に返れと言っているのではない。リパブリカニズムがこれほど多くを犠牲にしたにも関わらずこれほど少ない成果しかあげられなかったことは歴史上なかったのだ。あまりに多くが死に、達成されたことはあまりに少ない。……私はただ、アイルランドのこの地域に英国による支配を認めることが果たしてよいことなのかどうかを問うているだけだ。アイルランド全域の闘争というものはいったいどうなってしまったのか――32州が一体となった社会主義共和国という理念はどうなってしまったのか。そのための闘争ではなかったのか。病院を閉鎖し、教員組合を攻撃する政府に参加することではなかったはずだ。なぜ一般の労働者の権利のために戦わないのか、よりよい報酬や労働環境のために戦わないのか、ということだ。30年間の闘争の末、ストーモントの大きな部屋と、閣僚用の立派な車と、しゅっとしたダークスーツと、英国の『パッテン報告書』の勧告の履行、このようなことのために30年間の闘争があったのか?」
90年代以降のアイルランド共和国の「好調な経済」(「ケルトの虎」ともいわれるほどの)、それからEUというコンテクストの中におけば、こういった声はほとんど聞こえないほど小さなものになるかもしれない。でも、1948年のではなく、1916年の「アイルランド共和国」の理念を受け継ぐ者として、今のシン・フェインのあり方はどうなのか、という疑問は、「暴力/戦火/テロの停止」をほかの何よりも優先して進められてきた peace process への疑問として、小さなものではない。
今のストーモントの「パワー・シェアリング」を前提とした体制では、「野党」という存在がない。ある意味「超民主主義」だが、それゆえに、ある党の方針に反することが、自治政府全体の方針として行なわれ、その党もそれに反対することはできない、ということが発生している。そして、それに対する「政治家たちの無力さ」が、人々の間での政治に対するアパシーを発生させる危険性はかなりあるのかもしれない。
それと、特に、シン・フェインが(というか、ジェリー・アダムズが)「政治路線」をとるようになったのは、1981年ハンスト指導者のボビー・サンズが獄中から英国下院議員に立候補して当選したときに、その方針に手ごたえと自信を得たからだったとかいうのを考えると、ダーディ・プロテストやハンストという形で「政治犯としてのステータスのための闘争」を指揮していたブレンダン・ヒューズに「今のストーモント」がどういうふうに見えていたのか、少し想像するだけでも息苦しくなってくる。ことばにしてしまうとありきたりだが、「こんなもののために彼らは死んだのか?」という思いがヒューズには常にあっただろう。
2006年に目の手術を受けたときのIrish News記事(Allison Morrisによる)を紹介し、ヒューズについて書いているMick Hallの記事@The Blanket (8 October 2006)には、次のような文がある。Brendan Hughes is one of those rare human beings whose first thought is for those around him and for the comrades he once had responsibility for, no matter that this was in the distant past. ...
ブレンダン・ヒューズは、何よりも先に自分の周囲の人たちのことを考え、それがいかに昔のことであろうとも、かつて自分が責任をもって指揮していた同志たちのことを考える人だった。こういう人はめったにいない。……
It is well worth reading what Brendan said to Allison Morris for it epitomizes why he is regarded in such a favorable light by not only his former comrades, but even amongst those he fought against so tenaciously. ...
Allison Morrisにブレンダンが何を語ったのかはぜひ読んでいただきたい。これを読めば、ブレンダンがなぜ元の同志たちばかりか、かつて執拗なまでに攻撃してきた相手からも好意的に見られているかがわかる。……
そのアリソン・モリスの記事はヒューズのインタビューだが、そこで語られていることの「率直さ」に打たれる。ヒューズは、自身が視力を失う瀬戸際で手術を受けたあとにこのインタビューに答え(医師の診断ではハンストが原因で視力に異状が生じた)、「あのころのことが原因で苦しんでいるのは私だけではない。何百人もいる。体がすぐれない者もいれば、精神的に問題を抱えている者も、アルコール依存や抑鬱状態に苦しんでいる者も大勢いる」と語り、「元囚人支援グループは、誰を支援するかを選んで支援を行なっている。本当の支援とはいえない。酒びたりの生活の挙句、孤独のうちにだんだんと弱って死んでいったブランケット・マンを偲ぶとして壁画を描いたところで、誰の役にも立たない。それどころか、あの時代のことを美化して若い人たちに伝えてしまうわけで、それは非常によくない。刑務所の中がどういうことになっていたのか、あの時代に何があったのか、それは美化されているイメージとはかけ離れたものだ。この私がその生きた証拠だ」と語っている。
「酒びたりの生活の挙句、孤独のうちにだんだんと弱って死んでいったブランケット・マン」は、The BlanketのMick Hall記事によれば、Kieran Nugent (1958-2000) のことだそうだ。彼は1973年、15歳のときに、友人と道を歩いていたときに道を尋ねるふりをして声をかけてきた車の中のロイヤリストに撃たれ、自身は重傷を負い友人はそれで死ぬという経験をして、IRAに入った。(このような、「そこらへんの民間人をいきなり襲う」ということのバックグラウンドについては、UVFのファイターだった「ビリー」という男性の話などをご参照ください。)その後、裁判なしでの投獄などを経験し、最終的に1976年(18歳のとき)にロング・ケッシュに投獄された際に囚人服を拒み、毛布に身体をくるんで「最初のブランケット・マン」となった。彼がなくなったときのAn Phoblacht(シン・フェイン機関紙)の記事には、「ごく普通の少年の英雄的闘争」については細かく書かれているけれども、その悲惨な死については何も書かれていない――アイリッシュ・リパブリカンの「闘争」が南アフリカにとっていかなる意味を持っていたかなどは書かれているのに。
ブレンダン・ヒューズの訃報を伝えるBBC記事には、ヒューズのこうした声などどこ吹く風とばかりに、「ジェリー・アダムズと肩を組んで笑っているブレンダン・ヒューズ」の写真(たぶん1970年代のもの)と、アダムズの「お悔やみのことば」が掲載されている。(おそらくはアダムズもここにあることばに表れていない何かを胸中に抱いているのだろうけれども。)
ブレンダン・ヒューズのことば:
The Quest for Justice: Continuing the Struggle (@ Ireland's Own)
http://irelandsown.net/brendanhughes.html
※2000年のインタビュー3本、2006年のベルテレさんのインタビュー記事1本、1980年のハンストを語る短い文章(エントリ本文でKilling Finucaneから引いたもの)、2000年に本人が書いたオブザーヴァー記事1本。
Radio Free Eireann Interview with Brendan Hughes
http://homepage.eircom.net/~repwrite/invdark.html
※何年のかがわからないのだけれど、John McDonaghによるヒューズのインタビュー。半生の回想、ロング・ケッシュでのこと、などとても詳しい。
Hunger striker in fight for sight
(Allison Morris, Irish News)
October 7, 2006
http://www.nuzhound.com/articles/irish_news/arts2006/oct6_Hunger-striker_sight.php
※エントリ本文でも言及したけど。
Wealthy Provo Leadership abandon Ex-Prisoners
April 20, 2006
the Sunday Tribune
http://www.indymedia.ie/article/75599
※インタビュー。ずっとファイターとして過ごしてきて、手に職もなく教育もなく資格もないヒューズが、出獄したあとに現場仕事で「日当£20」というひどい状況に抗議したときに、Republican Newsもろくな反応をしなかったことなど。すごい記事だ。
ブレンダン・ヒューズとともに、1980年10月のロングケッシュでのハンストを行なった人々について:
Tommy McKearneyは文筆活動を行なっている。ヒューズと同様、現在のシン・フェインには批判的。
http://www.tommymckearney.com/
http://en.wikipedia.org/wiki/Tommy_McKearney
Raymond McCartneyはシン・フェインに所属する政治家。2004年からFoyle選挙区選出MLA。
http://en.wikipedia.org/wiki/Raymond_McCartney
Tom McFeeley, Sean McKenna, Leo Greenと、INLAのJohn Nixonについてはネットでちょこっと検索した程度では特に何も情報がない。
エントリ本文で言及した本・映画:
Killing Finucane
Justin O'Brien
Gill & Macmillan Ltd 2005-06-01
by G-Tools
Some Mother's Son
Helen Mirren Fionnula Flanagan Aidan Gillen
Castle Rock 1998-06-02
by G-Tools
■追記@20日:
……IHTで見たAPの記事。これがかなりよい記事だ。「いろいろと複雑なのである」ということをはっきりと示しつつ、事情に詳しくない人が読んでもすっとわかる。事態に関係のある人たちのエクリチュールではこうは行かないかもしれない。
Former Irish Republican Army commander dies
The Associated Press
Published: February 19, 2008
http://www.iht.com/articles/ap/2008/02/19/europe/EU-GEN-NIreland-Obit-Hughes.phpDUBLIN, Ireland: Brendan "The Dark" Hughes, a one-time Irish Republican Army commander who broke with former comrades when they pursued peace in Northern Ireland, was cremated Tuesday after a funeral that briefly unified both sides of the split.
Hughes, 59, who died Saturday, spent his final years criticizing Sinn Fein leaders for accepting Northern Ireland's 1998 peace accord. He said that, while the IRA should not return to violence, its political leaders made people suffer needlessly for decades when the British government had offered similar peace terms as long ago as 1975.
Sinn Fein leader Gerry Adams, a longtime comrade of Hughes inside and outside prison, helped carry his coffin outside St. Peter's Cathedral in Catholic west Belfast, where both men joined the IRA as teenagers.
Adams declined to comment. He issued a statement after Hughes' death calling him "a very good friend and comrade over many years of struggle."
Veterans of the IRA and dissident groups were among more than 2,000 mourners.
Sinn Fein officials appealed successfully for no politically divisive comments during the funeral.
Hughes specified before dying that he wanted to be cremated rather than buried in the IRA's roll of honor section in Milltown Cemetery, west Belfast, where dozens of his comrades lie.
The cause of death was not disclosed. But his family said he had suffered illnesses associated with his failure to recover fully from the effects of a 1980 hunger strike.
... 以下、ブレンダン・ヒューズについての説明の記述がたっぷり。
特に「ミルタウンのIRA戦士の墓地に埋葬するのではなく火葬を」と本人が言い残し、実際に火葬されたということは、ベルテレさんやブリテン島のメディアでは触れられていなかった。
また、政治的に見解が分かれるようなことはヒューズの葬儀では口にしないという取り決めがあったことも、触れられていなかった。(これがなければ、「友人」のジェリー・アダムズの参列は難しかったかもしれない。)
そしてこのIHT掲載のAP記事がすごいのは、記事末尾にThe Blanketへのリンクを提示している点だ。On the Net:
Hughes interviews and articles,
http://lark.phoblacht.net/BH0208.html
※転記時注:lark.phoblacht.netはデッドリンクになっているはずです。ミラーサイトはあるのでウェブ検索でどうぞ。
英国の新聞社などではこのURLを掲示するという判断はできなかろう。
なお、文中にあるアダムズのステートメントは:
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/local-national/article3442323.ece... the west Belfast MP paid him tribute: "On behalf of myself and my family, and republicans everywhere, I want to extend my sincerest condolences to Brendan's family.
"Brendan was a very good friend and comrade over many years of struggle. As a republican activist in the 1970s he demonstrated enormous courage and integrity and spent over 14 years in prison, never fully recovering from the hunger strike he led.
"Although he disagreed with the direction taken in recent years, he was held in high esteem by all who knew him."
シン・フェインのサイトに全文が上がっています。
http://www.sinnfein.ie/news/detail/24499
それから、ヒューズのハンストのときに危篤状態に陥ったショーン・マッケンナの訃報。
2008年12月22日 【訃報】ある「元ハンガーストライカー」の死
http://nofrills.seesaa.net/article/111559391.html
これもコピペ。
……ボビー・サンズらの前に、1980年10月にロング・ケッシュでハンストを行なった7人のひとり、ショーン・マッケンナが亡くなった。(今年はこのハンストのリーダーだったブレンダン・ヒューズも亡くなっている。)
12月19日のSlugger O'Toole記事:
The bill for Hunger
http://sluggerotoole.com/index.php/weblog/comments/the-bill-for-hunger/Sean McKenna, former IRA volunteer, who spent 53 days on Hunger Strike in 1980 and whose deteriorating condition resulted in Brendan Hughes calling an end to that protest has died.
Sluggerのこの記事は……今見ることのできる記事自体は単に「亡くなった」と書いてあるだけと言うに近く、Sluggerの編集長がコメント欄で説明しているけれど、ある「場」において「語る」というか「伝える」ことの難しさというもののあまりの大きさに圧倒されるしかない。(こういう例は北アイルランドには山のようにあるだろうし、NI以外にも山のようにあるだろう。)
Google Newsで検索してみたが、大手メディアでこの訃報を報じているところはなさそうだ。www.nuzhound.comにもないが、こちらさんにThe Irish Newsの報道が紹介されている。
これとは別に、オンラインのメッセージボードにはいくつか投稿がある。
Politics.ieでは、Sluggerを受けて訃報を伝えている。
http://www.politics.ie/chat/39173-sean-mckenna-former-ira-hunger-striker-dies.html
そんなにたくさんはない投稿の多くはシンプルなお悔やみの言葉だが、「子供のころに彼の顔写真のポスターを持ってデモに行った」という思い出を語っている人もいる。ロング・ケッシュに入れられる前、彼はボーダーの南にいて、それでもSASの越境作戦で身柄を拘束され、ディプロック法廷(陪審なしの「テロ容疑者」専用の裁判)で有罪と宣告されたことを端的に書いている人もいる。そして、ショーンのお父さん(42歳という若さで亡くなっている)は、1971年のインターンメントで最初に拘束され、感覚遮断など「5つのテクニック」の実験台とされたひとりである、ということも。
下記のメッセージボードには、「彼は優しくユーモアのある人だったが、最後まで、自分が生き残ったことを責めていた」とか、「お通夜から帰宅したところだ。ご家族によると、彼自身はハンストのことも、10人が死んだ第二次ハンストに至った間の出来事についても、話さなかったそうだ」といった投稿がある。そして、リパブリカン・ムーヴメントがいかに彼のような人を冷遇していたかも(かつての「闘士」たちは、獄中で行動を起こしている間は「英雄」扱いをされていたが、自身が獄中にある間に「流れ」から取り残され、出獄後はほとんど無視、というケースが多い。その上に、1998年の「和平合意」がある)。
http://www.mudcat.org/thread.cfm?threadid=117127&messages=6
CAINを参照すると――CAIN以外でも同じことが書かれているが――、1980年のハンスト(第一次ハンスト)は、10月27日、英政府が「スペシャル・カテゴリー(犯罪者ではなく、政治犯/戦争捕虜としての扱い)」を廃止したことに抗議して開始された。彼らが何を要求したかは、前に書いている……ってこの記事ではここと同じことしか書いてないか。(^^;) いずれにせよ前に書いたのだけど、「囚人服ではなく私服を着用」といったことを要求した (the five demands)。(映画『Hunger』で、あの若いIRA闘士は最初に署長の前で身につけているものをすべて脱ぎ、毛布を渡されているのは、「囚人服を着ない? よろしい、では毛布だ」ということ。)
このハンストは、リーダーがブレンダン・ヒューズ、以下レオ・グリーン、レイモンド・マッカートニー、トム・マクフィーリー、ショーン・マッケンナ、トミー・マキアニー(以上、IRA)、ジョン・ニクソン(INLA)の7人によって行なわれた。12月1日からは、ロング・ケッシュの彼らに加え、アーマーの女性のプリズナー3人が加わった(この3人のひとりが、1988年にジブラルタルで射殺されたマレード・ファレルである)。
http://larkspirit.com/hungerstrikes/1980-strikers.html
1980年12月15日には、ショーン・マッケンナが昏睡状態で生命が極めて危険な状態となり、ベルファストの病院に移された。17日にはアイルランドのカトリック教会の偉い人がハンストの中止を呼びかけ、18日にハンストの続行停止が宣言された。10月にハンスト入りした7人が食を断って53日。
マッケンナはくしくも、28年後のちょうどその日かその翌日に亡くなったことになろう。
The Irish Newsによると、ショーン・マッケンナはニューリーの出身。1980年のハンストで昏睡状態にまで陥ったことの影響は大きく、視力は最後まで、完全に回復することはなかった(ハンストで、視神経がダメになっていた)。ジェリー・アダムズより4つ若い56歳だった。
Tim Pat Coogan, "the IRA" から少し (p. 492)。There was one very important element in Sands's acceptance of the settlement terms: the condition of one of the hunger strikers, Sean McKenna. He was a particularly tragic product of the troubles. His father was one of those who, after the 1971 internment swoops, received the type of treatment which led to the Dublin Government bringing Britain before the European Commission of Human Rights. The treatment meted out to McKenna senior was some of the worst to have been suffered by anyone and when he died in 1975, at the age of fourty-two, it was generally accepted by his friends, family and neighbours that it was the 'inhuman and degrading treatment' that had brought him to an early grave.
Young McKenna was embittered IRA activist during 1976 and living in the Republic at Edentubber ... when he was kidnapped, it is believed by the SAS, and taken across the border to Bessiborough Barracks, Co. Armagh. There he underwent the customary brutalizing treatment before being placed on the 'Conveyor Belt' that eventually landed him in Long Kesh. By the forty-eighth day of the strike he had gone blind and his mental condition was giving rise to concern amongst his comrades. ...
そして彼は、最初は「死を恐れてはいない」という態度だったが、ハンストが進むにつれてそれを恐れるようになり、しかしながらハンストを中止しようとはしなかった。
Tim Pat Cooganは当時、英国政府と交渉しているアイルランド共和国の人々と近く、当時英国政府は「マッケンナの健康状態が悪化しているからハンストはじきに終わるだろう」と予測し、それによってダブリンから出ていた譲歩すべきとの主張が否定されていた、とのこと。
つまり……「切り札」的に利用されたんですね、「敵」の側によって。そして、ここでハンストが打ち切られたことが遠因となって、1981年のボビー・サンズらのハンストで10人が死んだ。
このことについて語ることなく、56歳で永眠。1994年の停戦、97年の停戦、98年の和平合意……といったことを見ながら。
The IRA
Tim Pat Coogan
Palgrave Macmillan 2002-01
by G-Tools
1980年のヒューズ、マッケンナらのハンストのあと、クリスマスを挟んで1981年1月、当局はリパブリカンの囚人たちに「囚人服ではない服」を支給した――彼らの要求していた「彼ら自身の服」ではなく。リパブリカンの囚人たちは自分たちの要求が結局聞き入れられなかったこと、むしろ言葉尻をとられていいようにあしらわれたことを知った。
映画『Hunger』で、畳まれた服をベッドに置いたボビー・サンズが、腰に毛布を巻きつけたままその服を着ようともせず、いらだたしげに震え、そして房内をめちゃくちゃにするシーンがある。このシーンが描写しているのはこの「囚人服ではない服」の支給、という場面である。サンズが、他人ではなく自身がその身体を「武器」として「闘争」に出るしかないと決意した瞬間。
http://en.wikipedia.org/wiki/1981_Irish_hunger_strike#First_hunger_strike
シン・フェインの機関紙であるAn Phoblachtのサイトを見てみたが、最新号が12月18日付で(週刊)、このあとはクリスマス休暇に入るから次の号はしばらく出ない。12月18日号では、ジョン・トーマスとボビー・ストーリーが獄中体験を含めこれまでのことを回想しているインタビュー記事が出ている。
http://www.anphoblacht.com/
こうやって、「リーダーシップ」との関係を保っている「元囚人」たちもいれば、まったく省みられない「元囚人」たちもいる。そして、ブレンダン・ヒューズのように、現在の「リーダーシップ」を批判した「元囚人」(の大物)もいる。
なお、ブレンダン・ヒューズの葬儀にはジェリー・アダムズも参列している。