現在進行中の事件などに関しては、本家およびはてなブックマークをご参照ください。

2009年02月12日

【事件・人 質問3】 パット・フィヌケン殺害事件とは。

【事件・人 回答3】

0717135438パット・フィヌケン (Pat Finucane) は1949年生まれのベルファストの弁護士(ソリシター)で、20代の「若手」のころから何人もの「有名な」クライアントのために法廷で活動してきた人です。(彼のクライアントのなかには、1981年のハンガーストライキで餓死したボビー・サンズも含まれていました。)

今からちょうど20年前の1989年2月12日、自宅で家族で食卓を囲んでいたフィヌケンは、妻子の目の前で、乱入してきた覆面の男2人に射殺されました。

12 February, 1989
Belfast lawyer Finucane murdered
http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/february/12/newsid_2540000/2540849.stm

パット・フィヌケン射殺事件は、事件の翌日にUDAが犯行声明を出し、事件から14年も経過した2003年に「実行犯」が逮捕・起訴されて2004年には有罪判決(禁錮22年)を受けています(ただしグッドフライデー合意により、2006年5月に釈放)。

しかし「実行犯」以上に「問題」となるのは、あのような殺害が可能となった背景に「警察がUDAに情報を流していた」という事態があったことです。そのこと自体は証拠ありという法的結論が出ているのですが、それについての真相解明は進んでいません。むしろ逆で、「真相」はなるべく「解明」されたくないのではないかという……例えば、事件についての資料が集められていた部屋(警察署内)が放火されて資料が焼失していたりしています。そういった経緯については、Justin O'Brien, "Killing Finucane" (2005) が詳しいです(書影は、このエントリの一番上に貼ってあります)。

そして、2007年6月にはこの「警察と武装組織との関係」についての刑事訴追という手続は完全に断念されています。刑事訴追とは別に行なわれることになっているパブリック・インクワイアリーも全然進んでいません。(フィヌケン事件と同様に、「警察と武装組織との関係」で特別に真相究明が必要と結論されたビリー・ライト事件ローズマリー・ネルソン事件については、インクワイアリが進んでいます、一応は。フィヌケン事件では特にご遺族や元同僚が、インクワイアリが「非公開」で進められる可能性が高いと考えて、完全に公開するよう英国政府に求め、英国政府はそれを拒否しています。)

以下、パット・フィヌケンという人とその殺害についてもう少し詳しく。

本館のエントリから:
2007年06月26日 奥の闇――パット・フィヌケン事件での治安当局とテロ組織の結託、起訴断念
http://nofrills.seesaa.net/article/45993321.html

※以下、2007年6月時点の記述のままです。
1989年2月12日、ベルファストのあるカトリックの家族を覆面のガンマン2人が襲った。家族は自宅で日曜日の食事の最中、つまり一家団欒の最中だった。一番上の子は下の2人の子をかばって部屋の隅で床に伏せた。ガンマンは家族の目の前で、父親に14発の銃弾を浴びせて殺した。母親も足に負傷した。

殺されたのはパット・フィヌケン(39歳)。ベルファストの弁護士(ソリシター)で、IRAのメンバーの裁判で被告人の弁護などをしていた。ものすごいやり手だったようで、IRAメンバーの無罪判決を勝ち取るなど、リパブリカンと敵対する勢力、つまり英国の治安当局とロイヤリストにとっては目障りな存在だった。

事件のすぐあと、Ulster Freedom Fighters(UFF: UDAの別名)が犯行声明を出した。「パット・フィヌケンはIRAである」。IRAのメンバーなら、「残念だがこれは『戦争』なのだ」とか言ってUDAであれUVFであれ、ロイヤリスト組織が殺しても、殺した側は「正当なターゲット」だったと主張することができた(それが「北アイルランド紛争」だ)。しかし、パット・フィヌケンがIRAだというUDA/UFFの声明の内容は、事実ではなかった。


▼以下、時系列についてはthe BBC, "Timeline of Finucane murder probe", 23 September 2004を参考にした。

事件の捜査は難航した。北アイルランドとは直接関係のないイングランドから、ジョン・スティーヴンスという警察官(当時ケンブリッジで警視副総監)を迎えて捜査本部が立ち上げられ、事件の翌年の90年1月に主要容疑者が特定されたが、そのタイミングで警察の施設内にある捜査本部で不審火が発生、書類などはあらかた焼けてしまった(一部は写しがイングランドに送られていた)。捜査本部には火の気はなく、備え付けられている火災報知器などはこのときは作動しなかった。(メイズでのビリー・ライト事件でも「たまたま作動しなかった」警報装置がある。)

1992年、別の事件で裁判を受けていたUDAの男、ブライアン・ネルソンが、実は「警察のイヌ」だったことが明らかになった。この男が、スティーヴンスの特定していた主要容疑者だった。スティーヴンスの捜査結果については、北アイルランド検察はさらなる調査を要求した。

こうして、事件の捜査は進められてはいたが進展はなく、誰も逮捕されないという状態で何年も過ぎ、フィヌケンの遺族や関係者らはパブリック・インクワイアリを要求して動いた。1998年には国連が英国に対し、インディペンデント・インクワイアリ(独立司法調査委員会)の設置を呼びかけたが、英国政府(98年だから「北アイルランド和平」を成し遂げたブレア政権である)はそれを拒絶した。

1999年、スティーヴンスの調査は第3期となり、元 UDAのウィリアム・ストービーという男がフィヌケン殺害容疑で起訴された。しかしこのストービーという男は、自分が武器の出所であることは認めたが、自分は殺害の実行犯ではないとしており、また、核心を知る証人が出廷を拒否したため、2001年秋に裁判は行き詰った。その直後、ストービーはロイヤリストによって射殺された。死人はしゃべれない。

なお、スティーヴンスの第三次報告書(後述)には2.3においてストービーがどのような人物だったのかについて説明がある。(報告書を見る限りでは、ある種の「内部告発者」として機能していたように見受けられる。)

2002年、政府が「当局とロイヤリストとの癒着/結託」がささやかれる殺人事件6件について、カナダの元検事を責任者として指名し、調査を開始した。

その数ヵ月後、BBCが"Licence to Murder"という調査報道番組を放映(→トランスクリプトやビデオクリップ)、その中で英軍の闇の (covert) 組織であるthe Force Research Unit (FRU) のやっていることが明らかにされる。FRUは「エージェントのハンドリング」つまりスパイの運営を行なっていた組織で、リパブリカン側、つまり Provisional IRAに、"Stakeknife"というコードネームのスパイを送り込んでいたことなどが明らかになっている。

FRUについては、このBBCの番組の放映後に「自分はFRUの一員だった」と名乗り出たマーティン・イングラムなどはけっこう細かい話をしている。……

なお、FRUのトップだったことが判明しているゴードン・カーは、その後ミリタリー・アタシェとして北京に送られ、現在はイラクのSpecial Reconnaissance Regimentにいる。SRRなんてそれ自体そうオープンなものではないが、イラクのSRRといえば、2005年9月に、アラブ人の服装をして爆発物を所持してそこらへんの通りにいたところをイラク警察に逮捕された英兵がSRRだったのではないかと言われている。この逮捕劇では、最後に英軍の戦車がバスラ警察に突入するという、到底現実だとは信じられない事態になった。

2003年、スティーヴンスが最初に主要容疑者として特定したブライアン・ネルソン(警察からUDAに送り込まれたエージェント)が、肺癌のために死亡した。

ネルソンが死んだ数日後に、スティーヴンスの第三報告書 (the Stevens III) が出た。スティーヴンスは、この第三次調査について次のように説明している。

1.5 In May 1999, following a letter from the Director of Public Prosecutions (NI) to the then Chief Constable of the Royal Ulster Constabulary, Sir Ronnie Flanagan, I was asked to re-investigate the murder of Patrick Finucane and allegations of collusion raised by British Irish Rights Watch.

※British Irish Rights Watchは http://www.birw.org/

14年にわたる調査の最後の報告書となったこの第三次報告書において、スティーヴンスは、「妨害を受けた」として1990年の不審火事件をある程度細かく説明し、また資料の開示が五月雨式でしかも遅かったことを説明している。

さらに、結論として、FRUとRUC(北アイルランド警察)のSB(Special Branch)がロイヤリストと結託していたと報告している。
4.6 I have uncovered enough evidence to lead me to believe that the murders of Patrick Finucane and Brian Adam Lambert could have been prevented. I also believe that the RUC investigation of Patrick Finucane's murder should have resulted in the early arrest and detection of his killers.

4.7 I conclude there was collusion in both murders and the circumstances surrounding them. Collusion is evidenced in many ways. This ranges from the wilful failure to keep records, the absence of accountability, the withholding of intelligence and evidence, through to the extreme of agents being involved in murder.

4.8 The failure to keep records or the existence of contradictory accounts can often be perceived as evidence of concealment or malpractice. It limits the opportunity to rebut serious allegations. The absence of accountability allows the acts or omissions of individuals to go undetected. The withholding of information impedes the prevention of crime and the arrest of suspects. The unlawful involvement of agents in murder implies that the security forces sanction killings.

4.9 My three Enquiries have found all these elements of collusion to be present. The co-ordination, dissemination and sharing of intelligence were poor. Informants and agents were allowed to operate without effective control and to participate in terrorist crimes. Nationalists were known to be targeted but were not properly warned or protected. Crucial information was withheld from Senior Investigating Officers. Important evidence was neither exploited nor preserved.

4.10 My enquiries with regard to satisfying the test for prosecution in relation to possible offences arising out of these matters are continuing.


さて、2002年のBBCの"Licence to Murder"という調査報道番組で、ある男が、警官が若いロイヤリストに、IRAの連中の弁護なんかしているパット・フィヌケンは「やってしまえ」と言っていたと述べていた。男は「警察が関わっていなかったら、フィヌケンはまだ生きていただろう」とさえ述べ、フィヌケン殺害事件に警察の関与が決定的だったということを明かした。

この男がケン・バレットで、2003年に逮捕・起訴され、2004年に法廷で自身の主張を覆して「有罪」を申告し、殺人罪で有罪判決を受け、22年の懲役刑を宣告された、フィヌケン殺害実行犯のひとりであった。犯行前、バレットはフィヌケンの容貌も何も知らず、警察筋(警察がUDAに送り込んだスパイであったブライアン・ネルソン)から顔写真などをもらっていた。

バレットはしばらく服役し、GFAの規定により2006年5月に保釈された。バレットは2004年の時点で41歳、ということは事件当時は25歳くらいだ。

つまり事件の構図は、治安当局、特に警察RUCのスペシャル・ブランチ(強烈な内部告発がある)が、ロイヤリストの武装組織を、汚れ仕事担当の組織(いわば「死の部隊 death squad」)として使っていた、ということだ。それがcollusion(警察と武装組織との癒着/結託)。警察から組織に送り込まれた者が、「あいつはかくかくしかじかで邪魔くさいから消してしまえ」と煽動する。それを真に受けたロイヤリストのガンマンが殺害を実行する。

英軍情報当局はいったい何人の「ロイヤリスト武装組織の元メンバー」をスパイとして使っていたんだろう。そして何を行なっていたのだろう――フィヌケン事件の核心はここにある。この事件は、「紛争という状況下で一個人に降りかかった悲劇」として回収してはならないのだ。

……

なお、2004年にスティーヴンスの第三報告書とバレットへの有罪判決を受けて、当時の北アイルランド担当大臣(ポール・マーフィー)がフィヌケン事件など「癒着/結託」の可能性の高い事件についてのインクワイアリの開設を宣言した。

しかしこのとき英国政府は、インクワイアリの性質を大きく変える法改定を行なった。「2005年インクワイアリ法 Inquiries Act 2005」である。
http://en.wikipedia.org/wiki/Inquiries_Act_2005

政府は「迅速に、あまり巨額の費用をかけずにインクワイアリを実施するために」という目的での法整備だと主張しているが、北アイルランドでの「癒着/結託」が疑われる殺人事件6件についての調査を英国とアイルランド共和国の政府から依頼されたカナダの元判事ピーター・コーリーや、アムネスティ・インターナショナルなどは、この法律を厳しく批判している。「国家の行動を精査する」という本来の「インクワイアリ」の機能が制限されており、そのような形でインクワイアリを行なったとしても内容に乏しい、というのがその批判の理由だ。

ちなみに、この法整備は2003年のハットン・インクワイアリのあとに進められている。パット・フィヌケン・センターはこの「2005年インクワイアリ法」でのインクワイアリには協力を拒むということを明言している。

ブレアの「北アイルランド和平」がちゃんちゃらおかしいのは、こういうところにある。北アイルランドについて、英国の国家としての関与、つまり国家テロ (state terror) をなるべく問わないようにしつつ、「とにかく暴力の停止をさせること」と「政治を機能させること」だけが和平の目的であるかのようなあの思考パターンには、紛争のメンタリティを終焉させることはできない。それだけでなく、英国というエスタブリッシュメントに都合の悪いことにならないように法律を変えてしまって、北アイルランド紛争の最も深い闇の部分を、将来的にもずっと闇のままにしておくようなことを平気でする。


……自分で書いたものを自分で読み返していてきつくなってきたので(何しろEames/Bradleyの例の件があるので……これについては本館で書く予定)、コピペはここまで。全文は元のURLでどうぞ。
http://nofrills.seesaa.net/article/45993321.html

なお、私が上記を書いてから10ヶ月ほどあとの2008年、また膝から崩れ落ちそうな記事がBBCに出ていました。

Finucane inquiry plans 'halted'
Page last updated at 08:45 GMT, Thursday, 24 April 2008 09:45 UK
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/7364400.stm
The widow of murdered solicitor Pat Finucane has said the British government decided 18 months ago to stop preparations for a public inquiry.

...

Geraldine Finucane said the family only discovered the decision when they contacted the NIO (= Northern Ireland Office) to check on progress.

She was told it was taken because the family refused to accept ministerial control of an inquiry under the Inquiries Act 2005.

"They appear to be saying that, unless we agree that British government ministers should be allowed to control what information the inquiry is permitted to examine in public, there will be no inquiry at all," Mrs Finucane said.


あと、一応、ウィキペディアから。以下が現時点の最新記事のほぼ全文。いかにここに「書かれていない」ことが多いか。
http://en.wikipedia.org/wiki/Pat_Finucane_(lawyer)
パトリック・「パット」・フィヌケン (1949年生まれ、1989年2月12日没) は、ベルファストで活動するカトリックの弁護士(ソリシター)だったが、1989年2月12日にロイヤリストのパラミリタリーに殺害された。彼の殺害は、北アイルランド紛争で最も物議を醸した事件のひとつであった。フィヌケンの名声が高まったのは、1980年代に複数件の人権侵害事案について英国政府を相手に法廷で勝利したことによる。彼は、ベルファストの自宅で妻と3人の子供と食卓を囲んでいたときに、14回撃たれた。妻もこの攻撃で負傷した。

背景

パットの兄(弟)のジョンはProvisional IRAのメンバーで、1972年にベルファストのフォールズ・ロードでの交通事故により、「活動中に」死亡した(=「戦死」した)。兄(弟)のダーモットは、1983年にメイズ刑務所から脱走した38人のIRAの囚人のひとり。彼らはこのときに看守をひとり殺していたが、ダーモットは(共和国に脱出しており)この事件によるアイルランド共和国から北アイルランドへの身柄引き渡しに異議を唱え、身柄引き渡しを行なわせなかった。3人目の兄弟のシェイマスは、1988年にジブラルタルで SASに射殺されたIRAメンバー3人のひとり、マレード・ファレルの婚約者だった。シェイマスは西ベルファストのIRAのユニットのリーダーだったが、 1976年に南ベルファストで家具店を破壊しようとしていたときに逮捕された。このとき一緒に逮捕されたのが、ボビー・サンズら7人のIRAメンバーであった。シェイマスは禁錮14年を宣告された。

パット・フィヌケンのクライアントのなかで最も知られているのは、IRAのハンガーストライカー、ボビー・サンズであった。彼はまた、サンズのほかに1981年のハンストで死亡したIRAメンバーおよびINLAメンバーの弁護士として活動し、ブライアン・ギレン【注:IRA指導者のひとり】やGervaise McKerr(1982年、RUCの「shoot-to-kill」で射殺された3人のひとり)の夫人の法的代理人ともなった。1988年には、英軍人殺害事件に関連して起訴されていたパット・マクギオンの弁護士となり、クラムリン・ロード裁判所の建物の外で、マクギオンと一緒にいるところを写真に撮影されている。

死亡

パット・フィヌケンの殺害については、人権団体(複数)が、(当時の)北アイルランド警察 RUCの警官が結託した上で実行されたと考えている。フィヌケンは北ベルファストにある自宅で、妻のジェラルディン(ミドルクラスのプロテスタントの家に生まれた女性)と子供たちの目の前で、2名の覆面の男に14回撃たれた。2003年、英国政府のスティーヴンス報告書が、フィヌケン殺害には実際に北アイルランド警察の結託があったと述べている。

UDA/UFFが、当時39歳だったフィヌケン殺害を認めている。理由は、フィヌケンは IRAの高位の将校だったからだとしている。フィヌケン事件の調査で警察は、UDAのこの主張の根拠となる証拠は何もないと述べた。フィヌケンはいくつもの重大な事件でリパブリカンの弁護士として活動していたが、ロイヤリストの弁護活動も行なっていた。彼の家族(親族)の何人かはリパブリカンに関係していたが、パット・フィヌケン自身がIRAのメンバーだったということについては、家族は強く否定している。

1999年、スティーヴンス報告書の結果、RUCのスペシャル・ブランチのエージェントでロイヤリスト武装組織UDAの補給係将校 (quartermaster) だったウィリアム・ストービーが、フィヌケン殺害で使われた拳銃のうち一挺を供給したことで有罪となった。この拳銃はUDAの持ち物であったが、事件当時はUDAは英国の法律では合法組織であった(非合法組織ではなかった)。

2000年、アムネスティ・インターナショナルが当時の北アイルランド担当大臣ピーター・マンデルソンに対し、フィヌケン殺害を取り巻く出来事についてのパブリック・インクワイアリー【注:英国での公式の法的手続きのひとつ】を開くよう求めた。2001年、ウェストン・パーク交渉の結果、引退したカナダの判事、ピーター・コーリーが、英国とアイルランド共和国両政府によって、北アイルランド警察、英軍、アイルランド共和国警察の(ロイヤリスト武装組織、リパブリカン武装組織との)結託についての疑惑を調査する担当として任命された。コーリーは2004年4月に、フィヌケン殺害についてもパブリック・インクワイアリを行なうべきと勧告した。

その後、英国政府はインクワイアリを開始すると明言したが、それは2005年インクワイアリー法によるものとされた。この法律は、英国政府は国家の行動についての精査を阻むことができる、というものだ。フィヌケンの家族はこの制限を批判し、インクワイアリに協力しない旨、名言した。コーリー判事もまた、同法を厳しく批判している。英国政府のこの決定に対し、アムネスティ・インターナショナルは独立したインクワイアリーを求め、英国の法曹に対し、同法の元で行なわれるインクワイアリーの職は拒否するよう求めることで応じた。2006年5月17 日、米下院は英国政府に対し、フィヌケン殺害事件についての独立したパブリック・インクワイアリを開くよう求める決議を採択した。

フィヌケン夫人のジェラルディン(1950年生まれ)は、英国の上級判事全員に対しこの要請を繰り返す書簡を書き、タイムズ紙の全面広告を出した。

2007年6月、フィヌケン殺害に関連して警官や兵士が刑事告訴されることはないとの報道がなされた。

死後

フィヌケンの法律事務所、Madden & Finucane Solicitors(所長はPeter Madden)は、国家の(暴力の)犠牲者や被害者と考えられる人々のための活動を続けている。殺害された弁護士を讃えるためにその名をとった「パット・フィヌケン・センター (PFC)」は、北アイルランドでのナショナリストの主張を広める活動を行なう団体である。


ちょうど20年となる2009年2月12日のBBCの記事:
Finucane death marked 20 years on
Page last updated at 08:24 GMT, Thursday, 12 February 2009
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/7884923.stm

事件から今までのことを、淡々と書いているだけの記事ですが、淡々としている分、行間が……。



このエントリは、あとで書き足すか書き直すかするかもしれません。
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*参考書籍*

北アイルランド紛争についての英書

英語ではとても読みきれない(買いきれない、収納しきれない)ほどの本が出ていますが、筆者は特に下記の書籍を参照しています。
※画像にポインタを当てると簡単な解説が出ます。

031229416607475451970717135438
The IRA
Tim Pat Coogan
Loyalists
Peter Taylor
Killing Finucane
Justin O'Brien

北アイルランド紛争について、必読の日本語書籍
筆者はこのブログを書く前に、特にこれらの書籍で勉強させていただいています。

4621053159 4846000354
IRA(アイルランド共和国軍)―アイルランドのナショナリズム
アイルランド問題とは何か
鈴木 良平

北アイルランド紛争の歴史
堀越 智

IRA―アイルランドのナショナリズム(第4版増補)
鈴木良平

458836605X
暴力と和解のあいだ
尹 慧瑛
→「北アイルランド」での検索結果
→「Northern Ireland」での検索結果
* photo: a remixed version of "You are now entering Free Derry",
a CC photo by Hossam el-Hamalawy
http://flickr.com/photos/elhamalawy/2996370538/


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