LVFのリーダー、ビリー・ライトは、1997年12月27日、メイズ刑務所内で射殺されました。ビリー・ライトという人物については、殺害実行犯の1人が自殺した2007年6月の本館でのエントリ、「不都合な真実を知っているかもしれない男の都合のよいタイミングでの自殺」を参照……ってリンクを置いておいてもあんまりクリックされないようなので、以下に、このエントリからビリー・ライトについての部分を抜き出してコピペしておきます。2007年6月の記事だから、「最新」ではないのだけど。
※以下、本館からのコピペ(最後まで)
……ともあれ、ビリー・ライトというのがどういう人物だったのかを簡単に記しておこうと思う。
ビリー・ライトは1960年、イングランドのウルヴァーハンプトンに生まれたアイリッシュ・プロテスタントである。彼が物心つくまえに家族は北アイルランド、サウス・アーマーのナショナリストが多い地域に引っ越し、彼はそこで育った。両親はプロテスタントだったが過激なロイヤリストではなく、彼自身、子供の頃は近所の子たちと一緒にナショナリストのスポーツであるゲーリック・フットボールをして遊んだりしていたそうだ。(1960年代半ばごろまでは、「紛争」は「ごく一部の過激派のもの」でしかなかった。セクタリアン・ディヴァイドもまだそんなにきつくなかったのだ。)
しかし、1960年代半ばにプロテスタントによるカトリック襲撃事件などが多発するようになり、1969年にIRAがOfficialとProvisionalに分離し、PIRAの「武装闘争」が本格化して「紛争」が始まるといった時代のなかで、ビリー少年の「ロイヤリスト」としての方向も決定付けられていく。
1970年代はリパブリカンの武装勢力とロイヤリストの武装勢力の殺し合い(しばしば、事態に関係のない一般市民を巻き込んだり、標的としたりした)が続いた。そして1976年1月、カトリックの人6人がロイヤリストに射殺された事件の翌日に、IRAはサウス・アーマーのキングズミルという村で、プロテスタントの工場労働者を乗せたバスを狙い、「報復」攻撃を行った。10人が殺された。
http://en.wikipedia.org/wiki/Kingsmill_massacre
この事件の直後、15歳のビリーはUVF (the Ulster Volunteer Force)に入った。この事件の前か後かはわからないが(調べていないので)、ビリーのおじさんと継父、継父の息子(義理の兄)がリパブリカンに射殺されていることも、ビリーのUVF入りの背景にあったようだ。
当時のことを、ビリーは後に、次のように回想している。
「工場の労働者たちがバスから引きずり出され射殺されたとき、俺は15だった。あの人たちはただプロテスタントだったから殺されたのだということがわかって、それで、住んでいたマウントノリスの村を出て、ポータダウンですぐにUVFの少年部に入った。同胞を助けることが俺の義務だと思った。
―― Toby Harnden, Bandit Country, the IRA and South Armagh, page 140
暴力のなかで、義憤に燃えた15歳の子が、UVFという武装組織でどのような方向に導かれたかは、想像に難くない。「アルスターのプロテスタントであること」に「誇り」を抱き、「プロテスタントの同胞たち」を守ることを義務とし、同胞たちを襲う「カトリックの連中」を敵とし、武器を手に「闘争」を行うこの組織で。
組織に入った翌年、ビリーは武器所持とカージャックで逮捕され有罪となり、42ヶ月服役する。釈放後は保険のセールスの仕事をし、結婚して娘を2人もうけ、このころにボーン・アゲイン体験をし(北アイルランドのプロテスタントの「テロリスト」にはボーン・アゲイン体験をする人がけっこう多い)、アーマーで宗教的活動も行う。
だがUVFを抜けたわけではなく、1980年代半ばにはUVFの活動を再開し、殺人や殺人共謀の容疑で何度も逮捕された。ミッド・アルスター地区のUVFの司令官となった彼は、麻薬密売を行うかたわら、20件近くの殺人(カトリックだから殺すというセクタリアンな事件)を指揮したというが、結局そのいずれでも有罪となることはなかった。彼のユニットの襲撃で殺されたのは主にカトリックの一般人で、リパブリカン武装勢力の人たちはごくわずかだった。IRAもINLA(IRAから分派した組織)もビリーの命を狙ったが、暗殺計画はことごとく失敗に終わっていた。
ビリーは自分たちのユニットのことを"Brat pack"(「わんぱく集団」というような意味)と呼んでいたが、あるジャーナリストが最初のBをとって"rat pack"(「ねずみ集団」)と呼んだことから、彼自身は「キング・ラット」とのあだ名を頂戴することになった。怒ったビリーはこのジャーナリストの所属する新聞社に爆弾攻撃を行ない、ジャーナリストを「ぶっ殺す」と脅迫したりした。なお、このジャーナリストはビリー・ライトの死後の2001年9月に暗殺されているが、事件は5年を経過してもなお未解決だ。
1994年10月、メイジャー政権で「和平」が動き出していたころに、ロイヤリストのアンブレラ・グループが「停戦」を決定し、UVFの上層部も下部組織に武装活動の停止を命令したが、ビリー・ライトはこれに反対し、1996年7月、UVFが組織として「和平」交渉にコミットしていたとき、オレンジオーダーの行進(Drumcree March)をめぐるいざこざの最中にカトリックのタクシー運転手を射殺して「停戦」を破り、UVF本部から追放された。(このタクシー運転手殺害事件は、ビリー・ライトの命令によって彼の組織の者が実行したことはほぼ間違いないが、ビリー・ライト本人が死亡していることにより、ほんとの真相はわからなくなってしまった。)
UVFから追放されたビリー・ライトは、すぐに、UVFの自身のユニットの連中を引き抜いて、自身の組織であるLVF (the Loyalist Volunteer Force)を立ち上げた。LVFには「和平」に反対していたロイヤリストが加わり、総勢250人ほどの規模になっていたという。ロイヤリストのアンブレラ・グループから独立した立場で活動していたLVFは、90年代の「和平の進展」などどこ吹く風とばかりに「活動」を続けた。結成の翌年、英国で労働党政権が成立した翌月、LVFは「テロ組織」としての指定を受けた(proscribeされた)。
このころのものだと思うが、おおぜいの人々(多くはティーンエイジャー)とともに行進するビリー・ライトの映像がある(下記の0:25くらいから)。「カリスマ」という言葉がぴったり来る。
http://youtube.com/watch?v=w66ejW_RF0s
※この映像はどっかのドキュメンタリーかな、1996年にUVFから分派したときの映像とか96年10月のビリー・ライトの最後のインタビュー映像とかも入っている。DUPのウィリアム・マクレエが集会のときに壇上でビリー・ライトと握手を交わしている映像も。(しかしマクレエは羊の皮をかぶった過激派だよなとつくづく思う。)
LVFはその後2001年までに18人を殺した。(1997年に5人、98年に9人、99年に1人、2000年に2人、01年に1人。←Sutton Index of DeathsでYearとOrganisationで2項検索)
ビリー・ライトは何件もの殺人を命令していることは確実だとされているが、ほとんどの場合に起訴に持ち込めるほどの証拠がなかったのだろう。1997年3月に、ある女性を殺すと脅したという、彼にしてはあまりひどくない犯罪で有罪になり、8年の実刑判決を受けてメイズ(ロング・ケッシュ)刑務所に収監された。LVFは同年5月に停戦を宣言したが、この宣言はビリー・ライトの仮釈放を目的とするポーズだと考えられている。
ビリー・ライトは、メイズのHブロック6号棟のCウィングとDウィングに、同じくLVFの囚人たち26人と一緒に収監された。しかしこの6号棟のAウィングとBウィングには、LVFと完全に対立するリパブリカン側の武装組織、INLA (the Irish National Liberation Army)の囚人たちが収監されていた。
メイズの簡単な見取り図@本物のホワイトボード:

* a CC photo by Still Burning, Uploaded on September 24, 2005
メイズが取り壊し前に一般公開されたときの写真。この刑務所は、2001年に閉鎖されたときのままの状態で放置されていた。6号棟はボードの右下で、メイズが閉鎖されたときには利用されていなかったことがわかる。
北アイルランド紛争関連の囚人を専門に収監しているメイズ刑務所では、基本的に、ロイヤリストとリパブリカンは別の棟に入れることになっていたし、ロイヤリストとリパブリカンでも組織別に分けるようになっていた。UDAとUVFで揉め事になったり、IRAとINLAで揉め事になったりするからだ。しかしこのときは他の棟がUDAやIRAで満杯になっていたのか、同じ棟にロイヤリストのLVFとリパブリカンのINLAを入れるという判断がなされた。
案の定、メイズのINLAは「チャンスさえあればLVFを」とギラギラし始め、INLAの政治部門であるIRSPは「別々にしないと大変なことに」と警告を発した。刑務所ではINLAとLVFの囚人が接点を持つことがないよう、徹底して分離しておくよう対策がとられた。
しかし1997年12月27日(普通に考えればクリスマス休暇中)、拳銃2丁(two handguns)を持ったINLAの囚人3人(クリストファー・マクウィリアムズ、ジョン・グレノン、ジョン・ケネウェイ)がA, BウィングとC, Dウィングの間の壁をよじ登り屋上に上がって、面会に向かうため中庭でヴァンに乗り込んだビリー・ライトを狙撃した。3発命中し、ライトはその場で死亡した。
BBCのOn This Day:
27 December 1997: Loyalist leader murdered in prison
http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/december/27/newsid_2546000/2546009.stm
ライト射殺後、頭目を失ったLVFは、UDAのジョニー・アデールらと組んでRed Hand Defendersと名乗る団体を立ち上げ、カトリックの一般人を対象とした「報復」を展開した。Suttonを参照すると、RHDは1998年に2人、1999年に1人、2001年に5人の計8人を殺している。犠牲者の内訳は、民間人が6人、警官が1人、元UDAが1人だ。
むろん、これに対してリパブリカンからの「報復」も起きている。北アイルランド紛争で何が陰惨ってこの「報復」ってやつで、これは「武装組織対武装組織」ではなく、「あいつらがわれわれの罪のない一般人を殺したから、われわれはあいつらの側の罪のない一般人を殺す」というものだ。一例として、「UVFのビリー」について、以前このブログに書いた(ビリー・ライトとは別人)。
※以上、http://en.wikipedia.org/wiki/Billy_Wright_%28loyalist%29 に依拠。
……
ビリー・ライトを狙撃した3人は、狙撃後すぐに投降し、殺害を自供した。1998年10月には公判が始まり、数日後には有罪判決が下りた。量刑は終身刑だったが、グッドフライデー合意の規定(「政治的動機による犯罪で有罪となり服役している者は仮釈放とする」というもの)により、2000年には仮釈放された。
裁判とは別に事件の調査も行われていたのだが、当時たまたま監視カメラが故障していたとか(「そんなに都合よく監視カメラが壊れるものか。メイズといえば、IRAが棟の中で鳩を飼って、監視カメラにうんこ攻撃をかまさせて機能しないようにした、という刑務所だ、当局も気をつけているはずだ」というツッコミあり)、リパブリカンの囚人がクリスマス・パーティに訪問した関係者と一緒に、女装して脱獄したばかりだったのに監視塔が無人だったとか、なんか「えーー」な感じの話ばかりで、しかも肝心の「銃がいかにして持ち込まれ、いかにして彼ら3人の手に渡ったのか」はまったくナゾのままとされている。
しかも3人のうちの2人は、事件の前に別の刑務所からメイズに移送されており、しかもこの2人は密かに運び込まれた銃器で人質を取って立てこもるという事件を行って服役していた。事件前に「屋上がガラ空き」と指摘されていたにも関わらず当局は何もしていなかったし、3人が前もってワイヤを切ってあったのに警備も気づかず警報も作動しなかった、とかいう数々のナゾが指摘されている。
http://www.birw.org/billy.html
A hole in a fence at the rear of the wing housing the accused had been cut out and a stack of chairs put in front of it to conceal it from inspection. A portion of fencing was held in place in front of it with shoestrings, he said.
The accused went through the hole in the fence, climbed up on a flat roof and down into the courtyard where the van was waiting with Wright inside for the gates to be opened, the court heard.
Monday, October 19, 1998 Published at 11:53 GMT 12:53 UK
Maze murder 'carefully planned'
http://news.bbc.co.uk/2/hi/events/northern_ireland/latest_news/196497.stm
んなわけで、「当局とINLAが裏でつながって共謀したのではないか」というcollusion疑惑があり、ビリー・ライトの父親などが懸命になってパブリック・インクワイアリーの実施を求めてきたのだ。それが本格化したこのときに、書類は処分されてました、それから、ビリー・ライトを狙撃した3人のひとりが自殺しました、って。。。
今回自殺したJohn Kennewayは、今年の2月に仮釈放を取り消されていた。ピーター・ヘイン北アイルランド担当大臣いわく、仮釈放後、彼は数々の違法行為を行なっており「社会に対し危険である」とのことだった。(GFAの仮釈放の規定では、「違法行為をおかしたら仮釈放取り消し」となっている。)(ベルテレさんが詳しい記事を掲載しているが、飲酒運転で警察とひと悶着あって逮捕されて、その結果として仮釈放取り消しになったようだ。)
……
北アイルランドでは、こういった事件の「真相究明」すらも「政争の具」にされている。パット・フィヌケンらナショナリストが殺された事件ではシン・フェインが、ビリー・ライトらユニオニストが殺された事件ではDUPとUUPが、活発に動いている。
上に書けなかったのだが、UVF時代にビリー・ライトは、UUPのデイヴィッド・トリンブルと大変に密接な関係を持っていた。トリンブルはGFAを実現させる推進力となったことで「ノーベル平和賞」を受け、そのために日本のメディアでは「穏健派」とか呼ばれているが、トリンブルが「穏健派」だなんて、どこのおもしろくない冗談だろうか。
ついでに、DUPは「われわれはシン・フェインとは違って武装組織の政治部門ではない」と言ってるけど、ビリー・ライトみたいなすごい過激派がアジってたセクタリアンな集会(オレンジマーチなど)でビリー・ライトのようなすごい過激派を「本物のユニオニスト」と褒め称えていたのはDUPである。
おまけ:
劇的ビフォーアフター@Portadown:
ビリー・ライトを「英雄」として讃えるパラミリタリーの壁画は、2006年に塗りつぶされ、代わって2005年に亡くなったジョージ・ベストの平和的な壁画が描かれた。
http://news.bbc.co.uk/2/shared/spl/hi/pop_ups/07/uk_enl_1181054486/html/1.stm
コピペ時補足:
最後に「ジョージ・ベスト」が出てくるのは、本館では説明不要だと思うけどこちらではごく簡単に説明しておきます。
1960年代から70年代にかけて、マンチェスター・ユナイテッドなどで大スターだったサッカー選手のジョージ・ベストは、1946年、ベルファスト(東ベルファストの「プロテスタント」エリア)の出身。
http://en.wikipedia.org/wiki/George_Best
2005年11月に亡くなったときには、その数ヶ月前の「PIRAの活動停止」などの余韻もあってか、BBC NIなどで「ベルファストがついにひとつになった」というような調子で、宗教的・政治的バックグラウンドを超えてベルファストと北アイルランドの人々がみな、「私たちの故郷の出身のスター」の死を悼んでいる、といったように報道されていた。(そのことに「嘘」はないのだけれども。)
プロテスタント/ユニオニスト/ロイヤリストのコミュニティでは、「紛争」時のパラミリタリーを賞揚する壁画を「平和的、文化的」なものに描き直す作業が少しずつ進んでいて、ビリー・ライトを讃える壁画が塗りつぶされたのはその一例。じゃあなぜジョージ・ベストかというと、「ジョージ・ベストを描こう」ということなら誰も反対しないから、らしいです。彼らのコミュニティにとってはベストは、one of our boysなんだなあと思います。